斉の第6代皇帝・東昏侯(蕭宝巻)に献身的に仕えたにも関わらず、蕭懿は謀反の罪を着せられて自害を命じられてしまいました。
蕭懿とはどのような人物なのでしょうか。
蕭懿の生涯を紹介します。
中書侍郎に任命される
蕭懿は斉で丹陽尹を務めた蕭順之と宋で交趾郡(ベトナム・ハノイ市)太守を務めた張穆之の娘・張尚柔との間に長男として誕生しました。
生まれ年は判っていませんが、蕭懿の弟・蕭敷が461年に産まれていることから、蕭懿は461年以前に産まれていると考えられます。
安南邵陵王行参軍に任命された後、父・蕭順之の爵位である臨湘県侯を受け継ぎました。
その後、太子舎人や太子洗馬、建安王友を歴任。
晋陵郡(江蘇省無錫市)太守となると、賄賂や情に左右されることなく、法に則った裁判を行い、中書侍郎に任命されました。
北魏の6つの城を攻め落とす
495年、北魏の第3代皇帝・太武帝(拓跋燾)のひ孫にあたる元英が兵を率いて、漢中(陝西省漢中市)に侵入。
勝てる見込みがないと思いつつ、蕭懿は自ら城にとどまって、元英軍を撃退。
元英軍が撤退すると同時に、部下・楊元秀に兵を率いて北魏を攻めるよう命令しました。
楊元秀は北魏の歴城(山東省済南市)、皋蘭(甘粛省蘭州市)、仇池(甘粛省隴南市)などの6つの城を攻め落としました。
功績を称えられた蕭懿は征虜将軍に任命され、300戸を加授されました。
その後、都督益寧二州諸軍事・益州(四川省成都市)刺史に任命されました。
東昏侯は理由もなく臣下や民を殺すといった悪政を敷き、東昏侯を恐れた臣下は自分の身を守ろうと東昏侯に取り入るようになりました。
混乱している朝廷を見て、蕭懿の身の危険を感じた兄・蕭衍は朝廷を離れるように進言しましたが、蕭懿は蕭衍に従いませんでした。
クーデターを度々鎮圧する
500年、南兗州(山東省済寧市)刺史・裴叔業が豫州(河南省洛陽市)でクーデターを起こしました。
蕭懿が討伐にあたると知った裴叔業は、北魏に向かい帰順しました。
その後、侍中・崔慧景が明帝の第3皇子・蕭宝玄を擁立してクーデターを起こしました。
一方、蕭宝玄は義父・徐孝嗣が東昏侯に毒殺され、妻・徐氏と離婚せざるを得ませんでした。
蕭宝玄が東昏侯に恨みを抱いていると知った崔慧景は蕭宝玄を誘い、二人でクーデターを起こすことにしました。
食事をしていた蕭懿のもとに、崔慧景がクーデターを起こしたという知らせが入ると、蕭懿は食事を中断して、3000人の兵を率いてクーデターの鎮圧に向かいました。
クーデターの混乱に乗じて、兄・蕭衍は部下・虞安福を派遣し、蕭懿に「崔慧景を討伐した後、東昏侯を廃してはどうか」と進言しました。
東昏侯を恐れていた臣下は蕭衍のアドバイスに賛成しましたが、蕭懿は従いませんでした。
蕭懿は崔慧景を討伐し、クーデターを鎮圧。
功績を称えられて、尚書令・都督征討水陸諸軍事に任命され、2500戸を加授されました。
謀反の罪を着せられて自害する
クーデターを度々鎮圧し、東昏侯に忠実な蕭懿は、東昏侯から更に気に入られるようになりました。
すると、東昏侯から気に入られていた茹法珍は蕭懿に嫉妬し、蕭懿がクーデターを起こそうとしていると嘘の上奏をしました。
東昏侯は蕭懿を気に入っていたにも関わらず、臣下から慕われている蕭懿を恐れ、蕭懿を謀反の罪で処刑することにしました。
部下・徐曜甫は蕭懿に都を出て、襄陽(湖北省襄陽市)に逃げるよう勧めましたが、蕭懿は従わず自害しました。
また、502年、蕭衍が梁を建国して、初代皇帝・武帝として即位すると、丞相を追贈されました。
まとめ
蕭懿の生涯を紹介しました。
北魏の6つの城を攻め落とし、また、クーデターを度々鎮圧した蕭懿。
蕭懿は東昏侯(蕭宝巻)に気に入られましたが、蕭懿に嫉妬した茹法珍は蕭懿に謀反の罪を着せ、その結果、蕭懿は自害を命じられてこの世を去りました。
何故、蕭懿が兄・蕭衍に従わず、東昏侯に従ったのか気になりますね。
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