【斉】滅亡した斉を忘れられず、自ら斉を建国した蕭宝寅ってどんな人?

梁を建国した初代皇帝・武帝(蕭衍)によって滅ぼされた斉。
滅亡した斉を忘れられず、蕭宝寅は自ら斉を建国しました。

蕭宝寅とはどのような人物なのでしょうか。

蕭宝寅の生涯を紹介します。

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北魏に亡命する

蕭宝寅は斉の第5代皇帝・明帝(蕭鸞)と敬皇后(劉恵端)の間に、第8皇子として誕生しました。

生まれ年は判っていませんが、同じ敬皇后から生まれた兄・蕭宝巻が483年生まれ、また、弟・蕭宝融が488年生まれなので、蕭宝寅は485年頃に産まれたのではないかと推測することができます。

494年、蕭鸞が明帝として即位すると、蕭宝寅は建安王に封じられました。
495年には北中郎将となって、都・建康(江蘇省南京市)の北西にある琅邪城に赴任しました。

おゆう
おゆう

蕭宝寅が485年に産まれたとすると、10歳前後で両親のもとを離れたことになりますね。

496年1月には、持節・都督江州諸軍事・南中郎将・江州刺史に任命され、江州(江西省九江市)に赴任しました。

498年、兄・蕭宝巻が斉の第6代皇帝・東昏侯として即位すると、使持節・都督郢司二州諸軍事・征虜将軍・郢州刺史に任命されました。
500年には、建康に呼び戻されて撫軍となり、翌年501年1月には、車騎将軍・開府儀同三司となって、石頭(江蘇省南京市)に赴任しました。

おゆう
おゆう

この頃、悪政を敷いていた東昏侯は、献身的に仕えていた蕭懿に謀反の罪を着せて処刑しました。

弟・蕭懿を自害に追い込んだ東昏侯を恨んだ蕭衍は、蕭懿の敵を討つべく、明帝の第8皇子・蕭宝融を擁立しました。

坊っちゃん
坊っちゃん

蕭宝融は蕭宝寅と同じく敬皇后から生まれました。
つまり、蕭宝融は蕭宝寅の同母弟にあたります。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

血の繋がった兄弟で、皇帝の座を争うことになったんですね。

蕭宝融により、蕭宝寅は使持節・都督南徐兗二州諸軍事・衛将軍・南徐州刺史に任命されましたが、蕭宝寅は東昏侯に仕えました。

すけさん
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ところが、12月、蕭衍が東昏侯を殺し、蕭宝融が斉の第7代皇帝・和帝として即位。

東昏侯に仕えていた蕭宝寅は、蕭衍と蕭宝融の復讐を恐れて、北魏に亡命しました。

功績を上げる

502年4月、北魏の都・洛陽に到着した蕭宝寅は北魏の第7代皇帝・宣武帝(元恪)に謁見しました。
宣武帝は蕭宝寅を北魏に迎え入れ、邸宅と馬を与えました。

一方、斉では、和帝から禅譲された蕭衍が梁を建国して、初代皇帝・武帝として即位しました。

おゆう
おゆう

和帝の禅譲により、斉は滅亡しました。

手柄を立てる

蕭宝寅に続いて、江州刺史・陳伯之、長史・褚冑が寿春(安徽省淮南市)で北魏に帰順。

おゆう
おゆう

蕭宝寅と陳伯之は、建国して間もない今こそ、梁を攻撃するタイミングだと言って、南征を勧めました。

宣武帝は南征を決意し、蕭宝寅は使持節・都督東揚南徐兗三州諸軍事・鎮東将軍・東揚州刺史に任命され、1万人の兵を率いて、南に進軍しました。

東城を攻めようと、汝陰(安徽省淮南市)に向かいましたが、東城は既に陥落していたため、蕭宝寅は戦わずして手柄を立てました。
その後、梁軍を率いていた姜慶真と出くわし、一度撤退したものの撃破しました。

これにより、蕭宝寅は北魏軍の中で高い評価を得ました。

官爵を剥奪される

506年、南征する中山王・元英に従い、使持節・鎮東将軍として500人の兵を率いて梁軍を撃破しました。

勝利を重ねた蕭宝寅は更に南に進軍しましたが、鍾離(安徽省滁州市)で梁軍に敗北。

敗北の原因は蕭宝寅の低い守備力にあったと報告され、蕭宝寅は官爵を剥奪されました。

敗北を重ねる

511年、梁軍が朐山(江蘇省連雲港市)を攻めたため、徐州刺史・盧昶を援護するべく、蕭宝寅は使持節・仮安南将軍に任命されました。

蕭宝寅は早速朐山に向かいましたが、梁軍に敗れ、兵をまとめて洛陽に帰りました。

撫軍将軍・冀州(河北省滄州市)刺史に任命された515年、沙門の法慶が冀州でクーデターを起こしました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

冀州刺史である蕭宝寅はクーデターの鎮圧にあたりましたが敗北。

洛陽から駆けつけた征北大将軍・元遥が鎮圧にあたり、蕭宝寅は敗北を重ねる結果となりました。

梁への帰順を断る

敗北を重ねていた蕭宝寅は、朝廷からわざと負けているのではないかと疑われるようになりました。

おゆう
おゆう

蕭宝寅を心配した武帝は梁に帰順するように手紙を送りましたが、武帝に対する蕭宝寅の恨みは消えていませんでした。

蕭宝寅は武帝から手紙が届いたこと、帰順するよう呼びかけられたけれども従わなかったことを朝廷に報告しました。
信頼を回復した蕭宝寅は左光禄大夫・殿中尚書に任命されました。

坊っちゃん
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その後、都督徐南兗二州諸軍事・車騎将軍・徐州刺史に任命されると、赴任先の清東に学校を建設して、現地の子どもが儒学を学ぶ環境を整えました。

521年、洛陽に呼び戻されて、車騎大将軍・尚書左僕射に任命されると、人事を適切に行うように上奏するなど、政務に励みました。

524年、梁軍が寿春を攻めると、蕭宝寅は使持節・散騎常侍・車騎大将軍・都督徐州東道諸軍事に任命され、兵を率いて討伐に向かいました。

おゆう
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ところが、蕭宝寅が到着する前に、揚州(江蘇省揚州市)刺史・長孫稚が梁軍を破って撃退していたため、蕭宝寅は戦うことなく兵と共に引き返しました。

527年には、涇州(甘粛省平涼市)でクーデターの鎮圧にあたることになりましたが、多くの兵を失ったあげく敗北。

坊っちゃん
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朝廷では蕭宝寅を処刑するべきだという意見が出ましたが、北魏の第8代皇帝・孝明帝(元詡)は処刑することなく、蕭宝寅の官爵を剥奪するにとどめました。

斉を建国する

蕭宝寅は処刑を免れましたが、蕭宝寅に対する朝廷の疑いは深まるばかり。
蕭宝寅を監視するべく、孝明帝は御史中尉・酈道元を蕭宝寅のもとへ派遣しました。

監視されていると知った蕭宝寅は酈道元を殺し、反乱軍が殺したように見せかけました。

おゆう
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そして、528年、都を長安として、斉を建国。

蕭宝寅が裏切ったことを知った孝明帝は、尚書僕射・行台・長孫稚に蕭宝寅を討伐するよう命じました。

坊っちゃん
坊っちゃん

もちろん、蕭宝寅は迎え討ちましたが、蕭宝寅の敗北が続くと、蕭宝寅のもとを離れる部下が続出。

蕭宝寅は妻・元皇后と第3皇子・蕭凱を連れて逃げ、クーデターを指揮していた万俟醜奴に帰順しました。

蕭宝寅は万俟醜奴から太傅に任命されましたが、530年4月、雍州(陝西省宝鶏市)刺史・爾朱天光が万俟醜奴を攻撃し、蕭宝寅は万俟醜奴と共に捕まり処刑されてしまいました。

まとめ

蕭宝寅の生涯を紹介しました。

北魏に亡命した後も、武帝(蕭衍)に対して恨みを抱き続けた蕭宝寅。
敗北を重ね、朝廷から疑われても、蕭宝寅には北魏以外に居所がなかったんですね。

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