【宋】武帝(劉裕)の皇女との縁談を辞退した王景文

皇族と姻戚関係を結べば将来安泰。
ところが、には、皇族との縁談や昇進を辞退した文官がいました。

王景文の生涯を紹介します。

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明帝(劉彧)の義兄となる

王景文は413年生まれで、琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市)の出身。

父は宋で侍中を務めた王僧朗です。

王景文には、23歳も年の離れた妹・王貞風がいました。
王貞風は宋の第6代皇帝・明帝(劉彧)の正妻で、466年、明帝が即位すると、王貞風は皇后に冊立されました。つまり、王景文は宋の外戚となります。

名前は彧といいますが、明帝と同じ名前なので、通称・景文で呼ばれました。

縁談を断る

宋の初代皇帝・武帝劉裕)の第5皇女・新安公主が離婚すると、王景文との縁談が持ち上がりました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

王景文は容姿端麗で、話し上手。
縁談を持ちかけた人は、離婚した新安公主の心の傷を癒してほしかったのかもしれません。

でも、王景文は仮病を使って断りました。

黄門侍郎の職を断る

太子太傅主簿となった後、太子舎人を務め、武帝の第5皇子・劉義恭のもとで征北主簿を務めました。

続いて、劉義隆(後の第3代皇帝・文帝)の第2皇子・劉濬のもとで後軍主簿を、劉駿(後の第4代皇帝・孝武帝)のもとで南広平郡(河北省邯鄲市)太守、諮議参軍、宣城郡(安徽省宣城市)太守を務めました。

おゆう
おゆう

これまで、任命された職をしっかり勤め上げた王景文。

ところが、453年、文帝の第1皇子・劉劭が文帝を殺して即位し、黄門侍郎に任命されると、王景文は命令に従わず就任しませんでした。

司空長史の職を断る

劉駿が劉劭を倒すべく挙兵したため、王景文は劉駿と連絡を取り合いましたが、父・王僧朗と共に都・建康にいたため、王景文と王僧朗は劉駿に加勢しませんでした。

劉駿が孝武帝として即位した後、王景文は孝武帝から叱責されました。

文帝の第4皇子・劉鑠のもとで司空長史に任命されましたが断り、東陽郡(浙江省金華市)太守となった後、御史中丞・秘書監となりました。

越騎校尉を兼任するように命じられましたが、これも断り、司徒左長史となりました。

司徒左長史となったものの、王景文の亡き姉の墓が掘り起こされ、金品が盗まれる事件が起きても、王景文は墓に駆けつけなかったため、免官処分となりました。

太子中庶子の職を断る

458年、再び秘書監となり、侍中を務め、461年には、(大明5年)、孝武帝の第4皇子・劉子綏のもとで冠軍長史となって、江夏国(湖北省武漢市)内史として出向し、行郢州(湖北省荊門市)事を務めました。

建康に呼び戻されて、再び侍中となりましたが、賭博を行っていたことがバレて、再び免官処分となりました。

間もなくして、再び侍中となり、太子中庶子を兼任するように命じられましたが断りました。

丹陽尹をはじめとした職を断る

464年、第5代皇帝・前廃帝(劉子業)が即位すると、侍中を解任されることなく、秘書監に任命されました。

父・王僧朗の看病をするため、故郷に戻ろうと辞職を願い出ましたが、465年には、尚書右僕射となり、明帝が即位すると、尚書右僕射を解任されることなく、丹陽尹に任命されました。

おゆう
おゆう

466年、父・王僧朗が亡くなり、故郷に戻って喪に服すために辞職を願い出ました。

王景文を高く評価していた明帝は、王景文を再び丹陽尹に任命しましたが、王景文は断りました。

その後、散騎常侍、中書令、中軍将軍に任命されましたが、これもまた断り、江州(江西省九江市)刺史となりました。

揚州刺史の辞職を求める

470年、都・建康に呼び戻されて、尚書左僕射となり、その後、揚州(江蘇省揚州市)刺史となりました。

建康から100kmしか離れていない揚州の刺史は、皇帝から高く評価されていなければ、そして、強く信頼されていなければ就任できない官職です。

荷が重いと感じた王景文は「揚州刺史ではなく、湘州(湖南省長沙市)刺史になりたい」と申し出ましたが、明帝は王景文の申し出を受け入れませんでした。

471年には、揚州刺史と中書監、太子太傅を兼任することになりました。

60歳で亡くなる

明帝は463年に生まれた第1皇子・劉昱を皇太子としていました。
472年、病を患い、死期が近いと悟った明帝は、10歳に満たない劉昱が後継ぎとなることを心配し、劉昱に敬意を表さない将軍や大臣を次々と処刑しました。

坊っちゃん
坊っちゃん

明帝の外戚である王景文は、揚州刺史をはじめ、さまざまな要職に就いていたため、明帝から「劉昱を利用して、国を乗っ取るのではないか」と疑われていました。

当初、王景文は明帝から疑われていることに気付いていませんでしたが、明帝が「一士親しむべからず」という歌を広めると、王景文は明帝から疑われていることに気付きました。

「一士」は「王」、つまり、王景文を指していたんです。

処刑を恐れた王景文は要職を解任するよう申し出ました。

ところが、明帝は王景文の申し出を受け入れず、472年、王景文に毒薬を渡し、自害するように命じました。
王景文は60歳で亡くなりました。

まとめ

王景文の生涯を紹介しました。

武帝(劉裕)の第5皇女・新安公主との縁談を断り、黄門侍郎や司空長史、太子中庶子、丹陽尹などの高い官職を辞退した王景文。
王景文には、秘書丞を務めた王絢をはじめ、3人の子どもがいました。

皇族との縁談を断った王景文と結婚した女性は、相当な覚悟をもって結婚したんでしょうね。

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