東晋で活躍し、宋を建国した武帝(劉裕)は皆のヒーロー。
にも関わらず、武帝の第2皇子は一介の文官に殺されてしまいました。
徐羨之に殺された劉義真の生涯を紹介します。
関中を統治する
劉義真は407年生まれで、宋の初代皇帝・武帝(劉裕)と側室・孫修華との間に第2皇子として誕生しました。
417年、後秦を討伐するため、劉裕は後秦の都・長安(陝西省西安市)に進軍することとなりました。
続いて、劉裕は長安を陥落し、後秦を滅亡させましたが、腹心である尚書左僕射・劉穆之が亡くなったため、東晋の都・建康に急遽帰ることとなりました。
劉裕に代わって、劉義真は関中(陝西省西安市)の統治を任され、都督并東秦二州司州之東安定新平二郡諸軍事となって、東秦州(陝西省延安市)刺史を兼任しました。
夏の赫連勃勃に大敗する
劉裕が都に帰ったことを知った夏の創建者・赫連勃勃は、機に乗じて、劉義真が統治する関中に侵攻しました。
劉義真は安西司馬兼馮翊(陝西省西安市)太守・王鎮悪、安西中兵参軍兼始平郡(陝西省西安市)太守・沈田子に、夏軍を迎え撃つよう命じました。
ところが、もともと仲の悪かった王鎮悪と沈田子の対立が激化し、沈田子は王鎮悪を殺してしまいました。
「王鎮悪は北の出身だから、信用できない」、「王鎮悪は江南出身者を皆殺しにして、劉義真に代わって関中を支配するつもりらしい」などのデマを流しました。
更に、劉義真の補佐をしていた王修が沈田子を殺し、劉義真が王修を殺してしまったため、東晋軍はもちろん、関中の民は劉義真に不信感を抱き、混乱に陥りました。
中には、夏に投降する人もいました。
事態を知った劉裕は、左将軍・朱齢石を雍州刺史に任命し、劉義真に代わって関中を統治するよう命じました。夏軍の勢いに圧倒された劉義真は朱齢石に全てを任せ、関中を早々に離れました。
関中を離れる際、劉義真は後秦の宮中に残されていた財宝を輿に詰め込みました。
そのため、輿が移動するスピードは遅く、夏軍に追いつかれてしまいました。
殺されると確信した劉義真のもとに、僧導という僧が現れました。
僧導は劉裕が派遣した世話人で、劉義真の面倒を見てほしいと頼まれていたんです。
数百人の弟子と共に夏軍に立ち向かい、僧導は「劉義真の屍を陛下にお返ししては面目が立たない。どうか、今回は見逃してほしい」と言いました。
僧導の迫力に圧倒された夏軍は攻撃を中止して退却しました。
朱齢石と王敬先は夏軍に捕らえられて殺されてしまいました。
司徒となる
420年、劉裕が宋を建国し、初代皇帝・武帝として即位すると、劉義真は廬陵王に封じられ、司徒となりました。
422年には、車騎将軍・南豫州(安徽省宣城市)刺史に任命され、歴陽(安徽省馬鞍山市)に赴任するように命じられましたが、命令に従いませんでした。
徐羨之に殺される
軍人上がりの劉裕に対し、劉義真には詩文の才能があり、詩人の謝霊運や宮廷文人の顔延之と交友を深めていました。
劉義真は「もし、私が皇帝に即位したら、謝霊運と顔延之を宰相に任命する」と周囲に漏らしました。
司空兼録尚書事として、朝廷で権力を拡大していた徐羨之は劉義真を警戒し、424年、劉義真は徐羨之から弾劾されて免官処分となり、庶人に落とされた後、新安郡(安徽省黄山市)に流罪となりました。
その後、劉義真は新安郡で殺され、18歳でこの世を去りました。
まとめ
徐羨之に殺された武帝(劉裕)の第2皇子・劉義真の生涯を紹介しました。
宋の初代皇帝・武帝は軍人上がりでしたが、劉義真には詩文の才能があり、その才能による交友関係から疎まれ、司空兼録尚書事・徐羨之に警戒されてしまいました。
徐羨之から警戒されず、もし、劉義真が即位していたら、宋の文学は大きな発展を遂げていたかもしれませんね。
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