【宋】父・文帝(劉義隆)を殺した劉劭と共謀した劉濬、王鸚鵡

では皇子間だけでなく、親子間でも争いが起きました。
父・文帝(劉義隆)を殺した劉劭と共謀した劉濬王鸚鵡の生涯を紹介します。

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父・文帝を殺した劉劭ってどんな人?

劉劭は424年生まれで、宋の第3代皇帝・文帝と正妻・袁皇后の間に、第1皇子として誕生しました。

劉劭が生まれた時、袁皇后は劉劭の顔を見て、将来国に災いをもたらすと予感し、文帝に劉劭を殺すようにお願いしました。
もちろん、文帝は第1皇子として生まれた大事な劉劭を殺しませんでした。

429年には、6歳で皇太子に冊立されました。

母・袁皇后を亡くす

440年9月、袁皇后が病死し、袁皇后が恋しかった劉劭と同母姉妹・東陽公主は袁皇后の霊に会いたいと思うようになりました。

東陽公主の侍女・王鸚鵡は、死者の霊を呼び出せるという巫婆・厳道育を紹介しました。

呪詛を行う

やがて、劉劭は厳道育の指導のもと呪詛を行うようになりました。

おゆう
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呪詛の目的は文帝の死でした。

父・文帝を殺す

劉劭が呪詛を行っていることが文帝の耳に入ると、文帝は劉劭の廃位を検討しました。

文帝が廃位を検討していることを知った劉劭は、文帝の寝室に忍び込んで、文帝を殺し、自ら即位しました。

異母弟・劉駿に殺される

ところが、3ヶ月後、文帝の第3皇子・劉駿が江州(江西省九江市)で挙兵し、5月には建康を陥落しました。

劉劭は捕らわれ、劉長文、劉長仁、劉長道の3人の子どもと共に殺されました。

共謀した劉濬、王鸚鵡

文帝を暗殺したのは劉劭ですが、実は、劉劭の異母弟と劉劭の后妃も共謀していました。

共謀した劉濬

劉濬は429年生まれで、文帝と側室・潘淑妃の間に、第2皇子として誕生しました。
潘淑妃が文帝の寵愛を受けると、袁皇后から妬まれ、復讐を恐れた劉濬は劉劭に媚びるようになりました。

また、異母妹の第2皇女・海塩公主と深い仲になるなど、皇族にふさわしくない不祥事が多く、文帝から度々叱られていました。
そのため、劉濬は文帝を憎み、劉劭と共に呪詛を行いました。

劉劭によって文帝が殺された時、文帝のそばにいた潘淑妃も一緒に殺されましたが、劉濬は潘淑妃の死を悲しむどころか「この日をずっと待っていた」と言って喜びました。

共謀した王鸚鵡

劉劭と東陽公主に厳道育を紹介した王鸚鵡も、劉劭と共に呪詛を行いました。

東陽公主が亡くなり、王鸚鵡は後軍主簿兼義成郡太守・沈懐文の弟・沈懐遠に嫁ぎましたが、養子・陳天興と愛人関係になりました。

おゆう
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陳天興との関係が表に出ることを恐れた王鸚鵡は、陳天興を殺してしまいました。

王鸚鵡の悪事を知った陳慶国は、王鸚鵡と劉劭、劉濬が呪詛を行っていることを上奏しました。

王鸚鵡は文帝に捕らえられましたが、劉劭が文帝を殺したことにより、王鸚鵡は命拾いし、劉劭の側室となりました。

劉駿が建康を陥落し、劉劭を殺した時、劉濬と王鸚鵡も共に殺されました。

まとめ

父・文帝(劉義隆)を殺した劉劭と共謀した劉濬王鸚鵡の生涯を紹介しました。

劉劭は母・袁皇后に会いたいと強く願うあまり、王鸚鵡が紹介した巫婆の指導のもと、死者の霊を呼び出せるというまじないに手を出し、やがて呪詛を行うようになりました。
異母弟・劉濬は劉劭に媚び、また、文帝に恨みを抱いていたため、劉劭と共に呪詛を行いました。

呪詛を行った実子2人の処分に悩んでいる間に殺されてしまった文帝。
劉劭と劉濬が父・文帝をもう少し信じていたら、結末は変わったのかもしれませんね。

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