【隋】初代皇帝・文帝(楊堅)ってどんな人?死因は?

約300年ぶりに中国を統一した隋の初代皇帝・文帝(楊堅)。
群雄割拠の時代を勝ち抜いた楊堅は、どのような人物なのでしょうか。

文帝(楊堅)の生涯、気になる死因を紹介します。

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文帝(楊堅)ってどんな人?

楊堅(ようけん)は541年生まれで、弘農郡華陰県(陝西省渭南市)の出身。

北周の大将軍である随国公の父・楊忠(ようちゅう)と母・呂苦桃(りょくとう)の間に誕生しました。

随国公とは爵位の一つで、随州を領地とする公爵(領主)を指します。
公爵の上は国王(領主貴族の最高位)、国王の上は皇帝となります。

尼僧に育てられる

楊堅は両親に育てられず、馮翊(ふよく。陝西省渭南市)にある般若寺に住んでいた智仙(ちせん)という尼僧に育てられました。
仏教に囲まれて育った楊堅は、幼い頃から仏教に親しみをもっていました。

ところが、北周の第3代皇帝・武帝(宇文邕・うぶんゆう)が仏教を弾圧したため、般若寺は壊されてしまいました。

後に、隋を建国した楊堅は、般若寺があった場所に大興国寺を建立しました。

随国公の爵位を継ぐ

555年、黄門侍郎・薛善(せつぜん)に才能を認められた楊堅は、官吏を採用したり、能力を査定したりする功曹に任命されました。

翌年15歳で、皇帝の詔勅や命令を伝達する散騎常侍となり、車騎大将軍、準大臣に相当する儀同三司に任命。
更に翌年16歳で、驃騎大将軍に任命され、その後、隋州(湖北省隋州市)刺史となって、将軍の中で最も高い位である大将軍に任命されました。

568年、楊忠が亡くなると、楊堅は随国公の爵位を継ぎました。

長女・楊麗華を北斉の皇太子・宇文贇に嫁がせる

当時、中国は淮河を境目に、華北と華南に分かれていて、華北には北周と北斉の2王朝が、華南には陳と後梁の2王朝がありましたが、北斉は国力を既に失っていました。

おゆう
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そこで、周辺異民族から攻められないように、突厥や吐谷渾をけん制したうえで、北周は北斉に進軍しました。

577年、北斉は滅亡し、楊堅は定州(河北省定州市)総管、亳州(安徽省亳州市)総管となりました。

武帝から強い信頼を得た楊堅は、長女・楊麗華を武帝の第1皇子・宇文贇(うぶんいん)に嫁がせました。

丞相、大司馬になる

ところが、嫁いだその年、578年に武帝が崩御。
宇文贇が第4代皇帝・宣帝として即位し、楊堅は皇帝の義父になりました。

坊っちゃん
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武帝はやり手でしたが、宣帝はThe ダメ皇帝。

19歳で即位した宣帝は側室を虐待したり、叔父に帝位を奪われるのを恐れて処刑したりしました。
楊堅は丞相となって政務を、大司馬となって軍事を取りしきり、宣帝に代わって、朝廷を動かしました。

左大丞相になる

自分が周囲に支持されていないことを自覚していた宣帝は、情勢を鑑みたのか、もっと好き放題したかったのか、即位からわずか10ヶ月で、第1皇子・宇文衍(うぶんえん)に譲位。

579年、宇文衍は第5代皇帝・静帝として即位することになりました。

おゆう
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でも、宇文衍は当時7歳。

7歳の静帝が政治を行えるわけがありません。

静帝にとって祖父にあたる楊堅は左大丞相となって、静帝をサポートすることになりました。

お嬢ちゃん
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サポートするといっても、静帝は楊堅の意見に賛成するだけで、自分の意見を述べたり、楊堅に反対したりすることはありません。

楊堅は北周の実権を握りました。

宣帝を暗殺する

やがて、毎日のように宴会を開いていた宣帝は身体を壊し、危篤状態になりました。

おゆう
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楊堅は宣帝の違勅を偽造し、寝たきりの宣帝の顔に布を被せました。

宣帝は22歳の若さで崩御しました。

楊堅は静帝に偽造した違勅を見せて、自分を北周の軍隊の総指揮官である総知中外兵馬事に任命させました。

続いて、北周の官吏に命令する役割をもつ大丞相、皇帝に代わって制裁を加える権限を持つ仮黄鉞(かおうえつ)、全ての軍隊を指揮する最高位である都督中外諸軍事に任命させました。

こうして、楊堅は静帝の代理人になりました。

隋を建国する

581年、楊堅は静帝に譲位を迫りました。

お嬢ちゃん
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即位した時から、静帝は形だけの皇帝。

もちろん、静帝は譲位に賛成しました。

楊堅は大興(後の長安)を都とし、隋を建国して、初代皇帝・文帝として即位しました。
隋王朝の名前の由来は、楊忠から継承した随国公の爵位です。

坊っちゃん
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隋と随、よく見ると漢字が違いますね。

しんにょうには、走る、先急ぐという意味があります。
しんにょうのある漢字を国名に使うと、国が早く滅亡を迎えると考えられていました。そのため、楊堅は「随」からしんにょうを外して「隋」という漢字を使用しました。

建築家・宇文愷(うぶんがい)は、北斉の都・鄴(ぎょう)を破壊して、その材料を使って大興城を建築しました。

文帝に譲位した静帝、地方王として左遷された6人とその孫は、文帝によって暗殺されました。

おゆう
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大人になって、反乱を起こしたり、北周を復活させたりしないようにするためです。

文帝には、5人の皇子がいましたが、第1皇子・楊勇を皇太子に選びました。

運河・広通渠を建設する

584年、洛陽と長安を結ぶ運河・広通渠を建設しました。

隋が建設した運河は5つあり、第2代皇帝・煬帝が運河を建設したことが、隋が滅亡するきっかけとなったことは有名ですよね。
でも、煬帝が全ての運河を建設したわけではありません。煬帝が即位する前から、運河の建設は始まっていました。

南朝・陳を滅ぼす

陳を滅ぼす時がやって来たと判断した文帝は、長い年月をかけて、戦闘準備を整えました。
文帝は次のような策を採用し、陳の国力を低下させました。

農民が穀物を収穫できないようにした

陳では、穀物の収穫時期が一年に2回ありました。
収穫時期に穀物を収穫できなければ、陳は食糧難に陥ってしまいます。

おゆう
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そこで、収穫時期に合わせて、隋の軍船をちらつかせました。

隋が侵攻してくると判断した陳の第5代皇帝・後主(陳叔宝)は、農民を兵として戦地に派遣しました。
でも、隋軍は陳を攻めてきません。

このような事態が続き、農民は収穫時期を逃して、食糧難に陥ってしまいました。

火で恐怖心をあおる

陳では切った竹を、そのままゴミとして捨てていました。

そこで、隋軍は置きっぱなしにされている竹に火を点けました。
火事が何度も起き、また、なかなか鎮火できないため、民は恐怖心をあおられてしまいました。

亡命した陳の民に、褒美を渡した

食糧難に陥り、恐怖心をあおられた陳の民は、隋に亡命し始めました。

すると、文帝は亡命した民に土地とお金を渡し、隋で暮らせるようにしてあげました。
この噂を聞いた陳の民は続々と隋に亡命しました。

中央市場の監督官である太市令・章華は、事態を後主に報告しましたが、陳叔宝は報告を信じるどころか、章華を処刑してしまいました。

589年、文帝は第2皇子・楊広を最高司令官に、高熲(こうけい)を陸軍の総司令に任命し、50万人の兵を派遣して、ついに攻撃を開始しました。

賀若弼(がじゃくひつ)は揚州に兵を集め、揚子江を渡って、南京へ攻め入る、
韓擒虎(かんきんこ)は揚子江の上流から渡って、南京へ攻め入る予定でした。

坊っちゃん
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つまり、賀若弼と韓擒虎が率いる軍で、陳を挟み撃ちにする戦略です。

隋の軍船が陳の領土に侵入することはあっても、これまで隋軍は陳を攻めませんでした。
そのため、後主は「また、軍船をちらつかせているだけだ」と思い、戦闘態勢を整えませんでした。

隋軍が宮中に入った時、後主は初めて隋軍から攻撃を受けていることを知り、側室・張貴妃、孔貴人と共に、井戸に逃げ隠れましたが、逃げ切れるわけがなく、後主は捕まり、陳は滅亡しました。

後主の側室、宗室は、隋で分け与えられることになり、後主の妹・陳氏と再従妹・蔡氏は文帝の側室に、後主の妹・楽昌公主は側近・楊素に嫁ぐことになりました。

お嬢ちゃん
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後主は?

敵国の皇帝を捕らえたら処刑するのが一般的ですが、後主は護送された隋で酒に溺れる毎日を過ごしていました。
陳叔宝は反乱を起こす気はないだろうと判断した文帝は、陳叔宝の処刑を免除しました。

こうして、587年に後梁、589年に陳を滅ぼし、文帝は約300年ぶりに中国を統一しました。

中国を統一した文帝は、次の8つの改革を行いました。
① 開皇律令の公布
② 三省六部
③ 郡を廃止して、州や県を設置
④ 九品中正法を廃止して、科挙制度を採用
⑤ 貨幣の統一
⑥ 府兵制、均田制を採用
⑦ 仏教の復興(といっても、仏教だけでなく、儒教、道教の信仰も認める)
⑧ 租調庸制の実施

刀狩りを行う

595年、宇文愷は岐山(陝西省宝鶏市)に仁寿宮という離宮を建築しました。

仁寿宮には、楽平公主を含む北周の宣帝の側室が住むことになりました。

おゆう
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この時、文帝の目に留まったのが尉遅熾繁。

文帝が尉遅熾繁に心を奪われたと気付いた独孤伽羅は、尉遅熾繁を斬ってしまいました。
独孤伽羅が尉遅熾繁を斬ったと知った文帝は、軍官以外は刀を持ってはいけないとして、刀狩りを行いました。

高句麗に遠征する

598年、隋の東北にある遼東に高句麗が侵入したため、高句麗に遠征しました。

ところが、高句麗と戦う前に、隋軍は撤退せざるを得ませんでした。

坊っちゃん
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というのも、高句麗で疫病が流行っていたからです。

こうして、文帝の高句麗遠征は失敗に終わりました。

楊広を皇太子にする

600年、楊勇を廃して、第2皇子・楊広を皇太子に選びました。

お嬢ちゃん
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一夫一妻制を貫いてきた文帝と独孤伽羅は、楊勇に嫌悪感を抱いていたからです。

楊勇は正妻・元氏を幽閉し、側室・雲昭訓を寵愛しました。

当時、皇族が正妻の他に側室を抱えることは当たり前でしたが、楊勇の母・独孤伽羅は男性が側室を抱えることを極端に嫌っていました。
そのため、文帝には4人の側室がいましたが、文帝の周りに侍ることはありませんでした。

文帝には5人の皇子、4人の皇女がいますが、9人の生母は独孤伽羅です。
文帝の側室は子どもを産みませんでした。
というのも、独孤伽羅は側室に子どもを産ませないように約束させていたんです。

63歳で崩御する

602年、独孤伽羅が病死し、文帝は独り身になりました。

いつも一緒にいた独孤伽羅がいなくなり、寂しくなった文帝は、側室・陳夫人、蔡夫人を寵愛しました。

陳夫人は陳の第4代皇帝・宣帝の第3皇女で、蔡夫人も江南の出身でした。

南朝の貴族文化は北朝に比べてきらびやかで、60歳を過ぎた文帝にとって、南朝の女性は目の保養になりました。

604年、文帝は病で伏せるようになりました。
楊広は文帝の後宮に出入りし、度々見舞いに訪れましが、63歳で崩御しました。

文帝(楊堅)の気になる死因は?

604年に崩御した文帝。
文帝は崩御する前に重い病を患い、起き上がれなくなっていました。

おゆう
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そのため、文帝が病死したと考えるのが自然です。

でも、文帝が崩御する直前に、楊広は文帝の側室・宣華夫人に手を出していました。

宣華夫人は文帝に告げ口し、文帝は楊広の本性を見抜けなかったこと、楊勇を廃したことを後悔しました。
文帝は楊勇を呼び出して、皇太子に再び選ぼうと、側近・柳述、元厳に命令しました。

柳述、元厳は左僕射・楊素に、楊勇を呼び出すように命令しました。

お嬢ちゃん
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ところが、楊素は既に楊広に取り込まれた後。

文帝が楊勇を再び皇太子にしようとしていることを知った楊広は、文帝を暗殺したといわれています。

文帝が何故亡くなったのか、死因は判っていません。
もちろん、楊広が文帝を暗殺した可能性はありますが、後に第2代皇帝・煬帝として即位する楊広は、暴君として有名。

そのため、楊広が文帝を暗殺していてもおかしくないとして、脚色されたとも考えられています。

まとめ

文帝(楊堅)の生涯、気になる死因を紹介しました。

優秀な部下に恵まれ、約300年ぶりに中国を統一した文帝。
でも、文帝の第1皇子・楊勇は正妻を幽閉して、側室を寵愛し、第2皇子・楊広は文帝の側室に手を出すなど、子どもには恵まれませんでした。
文帝の死因は判っていませんが、病死、あるいは、楊広に暗殺されたといわれています。

妻より愛人を大事にする、父の愛人に手を出すなど、なかなか考えられないこと。
文帝と独孤伽羅の教育方針が気になりますね。

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