【唐】高宗、則天武后、中宗に仕えた裴炎ってどんな人?疎まれた理由は?

唐の第3代皇帝・高宗、則天武后、第4代皇帝・中宗の3代に仕えた宰相・裴炎。

裴炎は則天武后が登場するドラマに欠かせない人物ですが、やがて中宗や則天武后から疎まれて失脚してしまいます。
裴炎とはどのような人物なのでしょうか。

裴炎の生涯、中宗や則天武后から疎まれた理由を紹介します。

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高宗、則天武后、中宗に仕えた裴炎ってどんな人?

裴炎は河東郡聞喜県(山西省運城市)の出身。

生まれ年は判っていませんが、幼い頃から勉強に励み、孔子が編纂した歴史書「春秋」を特に好んで読んでいたといわれています。

太宗が設置した弘文館で勉強に励んだ後、科挙の明経科に合格。

弘文館とは五品以上の文武官から書を学ぶことができる施設です。

濮州(河南省濮陽市)司倉参軍に任命された後、御史や起居舎人、黄門侍郎を歴任しました。
680年には、同中書門下三品となって、宰相に任命され、翌年、681年には、皇帝の代わりに質問する侍中に昇進しました。

高宗が都を離れる時には、皇太子の補佐役として、長安の留守に任命されました。

おゆう
おゆう

コネやツテではなく、実力で昇進した裴炎は、皆のお手本として親しまれていました。

高宗が崩御し、684年に中宗が即位すると、裴炎は詔勅の起草を行う中書令に任命され、確固たる地位を築きました。

坊っちゃん
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ところが、やがて裴炎は中宗と反りが合わなくなります。

即位後、中宗は妻・韋皇后の親戚に高い官職を与え、韋氏が朝廷で権力を握るようになりました。
また、韋皇后は父・韋玄貞の官職に満足できず、韋玄貞を侍中に任命するよう、中宗にお願いしました。

韋皇后の尻に敷かれていた中宗は、韋皇后の頼みを受け入れ、韋玄貞を侍中に任命しようとしました。

おゆう
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中宗の行動を嗅ぎつけた裴炎は、中宗の母・則天武后に報告。

中宗と韋皇后、韋玄貞の行動は則天武后の怒りに触れ、則天武后は中宗を廃し、均州(湖北省丹江口市)に流されました。

中宗と韋皇后は生き延びましたが、韋玄貞は均州で亡くなりました。

中宗が廃され、睿宗が即位すると、中宗の悪事を未然に防いだことを評価され、永清県(河北省廊坊市)男に封じられました。

坊っちゃん
坊っちゃん

県男とは爵位の一つです。

裴炎は則天武后の信頼を得ましたが、やがて則天武后と対立し始めます。

則天武后は自らの権力を世に知らしめるべく、武氏七廟(則天武后の7代以上の祖先の廟)を建立しようとしたり、初代皇帝・高祖(李淵)の第11皇子・李元嘉や第19皇子・李霊夔を処刑しようとしたりしました。

裴炎は則天武后の行動に異議を申し立て、則天武后との関係にひびが入りました。

684年、柳州(広西チワン族自治区)司馬・李敬業が均州に流された中宗に政権を戻すクーデターを起こしました。

おゆう
おゆう

皇帝は睿宗でしたが、実際に決定権を握っていたのは皇太后である則天武后で、則天武后が国のトップに立っていることに、李敬業は不満を抱いていたんです。

則天武后は裴炎に反乱を鎮圧する策を相談しましたが、裴炎は策を提案するどころか、睿宗を皇帝として認め、則天武后に朝廷から退くように上奏しました。

女性が政務を行うなんて、当時は全く考えられないことでしたが、則天武后には政治家としての才能がありました。
裴炎のように、則天武后が政務を行うことに反対する者もいれば、逆に、則天武后が政務を行うことに賛成する者もいました。

お嬢ちゃん
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則天武后を慕う者は、裴炎を排除しようと、裴炎がクーデターを企てていると上奏。

結果、裴炎は処刑され、この世を去りました。

中宗や則天武后から疎まれた理由は?

紹介したように、裴炎は中宗と則天武后から疎まれました。
何故、裴炎は中宗と則天武后から疎まれたのでしょうか。

中宗から疎まれた理由

裴炎が中宗から疎まれた理由は、中宗が朝廷を妻・韋皇后の親戚に一任しようとし、裴炎が中宗に異議を唱えたからです。

科挙に合格し、実力でのし上がってきた裴炎にとって、中宗の行動は許せないものでした。

則天武后から疎まれた理由

裴炎が則天武后から疎まれた理由は、則天武后が皇帝である睿宗に政治を一任せず、裴炎が則天武后に異議を唱えたからです。

即位した時、睿宗は既に22歳で立派な大人。
にも関わらず、睿宗を差し置いて、政務を行う則天武后を、裴炎は批判的な目で見ていました。

おゆう
おゆう

裴炎は生真面目で、意見を包み隠さずに言う性格。

正論をぶつけられた中宗や則天武后から疎まれても仕方がなかったのかもしれませんね。

まとめ

裴炎の生涯、中宗や則天武后から疎まれた理由を紹介しました。

高宗、則天武后、中宗に仕え、宰相として大活躍した裴炎。
実力で確固たる地位を築き、中宗や則天武后に意見を堂々と述べた裴炎は疎まれることになり、クーデターを企てていると上奏され、最期は処刑されてしまいました。

裴炎は則天武后が登場するドラマに必ずと言っていいほど登場します。
是非、裴炎に注目してみてくださいね。

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