日本人・多利思比孤が書いた「日出ずる処の天子」から始まる国書。
煬帝を怒らせたとして有名ですよね。
でも、煬帝は国書を読んでも怒っていなかった、もしくは、怒ってもすぐに怒りを静めたのではないかと考えられます。
国書を読んだ煬帝が怒っていない、怒りを静めたと考えられる理由、国書を書いた日本人・多利思比孤の正体を紹介します。
実は国書を読んだ煬帝は怒っていない?
約300年ぶりに南北朝を統一した隋の初代皇帝・文帝(楊堅)。
文帝が崩御した後、第2代皇帝・煬帝(楊広)は、周辺諸国に積極的に進出しました。
607年には、朱寛を派遣して、現在の沖縄県、もしくは、台湾に該当するといわれている流求国に、朝貢国になるように要求しました。
推古天皇の下で摂政を務めていた聖徳太子は、隋の動向を探るべく、小野妹子に国書を持たせて派遣しました。
608年、隋に到着した小野妹子は、洛陽で煬帝に謁見し、国書を煬帝に渡しました。
すると、煬帝の顔は見る見るうちに真っ赤になりました。
国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無き(つつがなき)や」と書かれていました。
煬帝にとって、天子(君主)は自分一人で、自分の他に天子がいるなんて考えたことがありませんでした。
煬帝は国書を読んで激怒したものの、天子のいる日本が気になります。
そこで、小野妹子の帰国に合わせて、外交担当である主客郎中・裴世清を日本に派遣しました。
裴世清がやって来ると知った日本は大騒ぎ。
裴世清が到着する前に、難波津に客館を建設し、接待の準備を整えました。
裴世清と共に無事帰国した小野妹子は、煬帝から預かった国書を紛失したと言って、聖徳太子に国書を渡しませんでした。
そのため、聖徳太子の手元に届いたのは、裴世清が煬帝から預かった国書だけでした。
裴世清が預かった国書には「皇帝、倭皇に問う」と書かれていました。
「倭皇」とは、日本の皇帝という意味。
煬帝は日本の君主を自分と同等の立場であることを認めていました。
裴世清の帰国に合わせて、聖徳太子は小野妹子を隋に再び派遣しました。
小野妹子と共に、高向玄理や南淵請安、僧旻など、後に日本で大活躍する人物が隋に渡りました。
隋に向かう途中、小野妹子は聖徳太子から預かった国書をこっそり読みました。
国書には「東の天皇、西の天皇に敬白す」と書かれていました。
つまり、聖徳太子は推古天皇と煬帝が同等の立場であると、念押ししていたんです。
聖徳太子は中国の歴史を研究したうえで、国書を書いたのかもしれません。
煬帝の怒りを買うと判断した小野妹子は、煬帝に国書を渡しませんでした。
他国の君主は自ら隋を訪れ、煬帝に謁見しましたが、日本は天皇自ら隋を訪れることはしませんでした。
隋から使者が派遣されると、聖徳太子は「私達は辺鄙なところにいるため、礼儀を知りません。無礼を働かないよう、国内にとどまって、道を祓い清め、宿舎を用意して、大使をお待ちしております」と言いました。
外交辞令とも、言い訳ともとれる発言。
でも、聖徳太子の機転の利いた発言のおかげで、天皇自ら隋を訪れずに済んだんですね。
書いた日本人・多利思比孤って誰?
日本では、小野妹子が煬帝に渡した国書の書き手は聖徳太子だといわれていますよね。
隋では、国書の書き手は多利思比孤とされています。
というのも、中国の史書では、多利思比孤が蘇因高を派遣したと書かれているからです。
日本に伝わる歴史、中国に伝わる歴史から考えて、多利思比孤は聖徳太子を、蘇因高は小野妹子を指すと考えるのが自然ではないでしょうか。
まとめ
国書を読んだ煬帝が怒っていない、怒りを静めたと考えられる理由、国書を書いた日本人・多利思比孤の正体を紹介しました。
「日出ずる処の天子」から始まる国書を読んで、煬帝が怒ったのは有名な話。
でも、裴世清が煬帝から預かった国書には「皇帝、倭皇に問う」と書かれていて、煬帝は日本の君主と自分が同等の立場であることを認めていました。
国書の書き手は聖徳太子であり、隋では、国書の書き手が多利思比孤とされていることから、多利思比孤は聖徳太子と同一人物だと考えるのが自然です。
へりくだりながら、隋を訪れることを拒否した聖徳太子。
聖徳太子には、外交手腕もあったんですね。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!