【隋】免官・投獄されても朝廷に返り咲いた蘇威ってどんな人?

隋の第2代皇帝・煬帝(楊広)は暴君として有名ですが、そんな煬帝にも、どうしても手放せない臣下・蘇威がいました。

蘇威とはどのような人物なのでしょうか。

蘇威の生涯を紹介します。

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北周で大将軍となる

蘇威は542年生まれで、武功郡(陝西省咸陽市)の出身。

父は西魏で大行台度支尚書と司農卿を兼任した蘇綽(そしゃく)です。

父は西魏で活躍していたものの、家に蓄えはなく、質素な生活を送っていました。

蘇威が5歳になった頃、蘇綽が亡くなりました。

蘇綽の功績によって、蘇威は郡の功曹となり、北周の第3代皇帝・武帝(宇文邕)の従弟・宇文護から才能を評価され、長女・新興公主との縁談を申し込まれました。

すけさん
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皇族である宇文護の愛娘と結婚すれば、蘇威の大出世は間違いありません。

でも、宇文護は対立していた太保・独孤信や太傅・趙貴を自害に追い詰めるなど、陰険な性格だったため、蘇威は縁談を断りました。
縁談を断った後、宇文護の復讐を恐れた蘇威は山に逃げ込みました。

ところが、蘇威の叔父から縁談を受け入れるように説得され、蘇威は新興公主と渋々結婚しました。

夫婦関係は結婚当初から冷え切ったもので、新興公主と顔を会わせたくなかった蘇威は山にこもって、読書に明け暮れました。

新興公主との結婚生活は順調とはいえませんでしたが、宇文護と姻戚関係になった蘇威は車騎大将軍となり、儀同三司の位を授けられました。
その後、稍伯下大夫となって、第4代皇帝・宣帝(宇文贇)の治世では大将軍となり、開府儀同の位を授けられました。

隋で尚書右僕射となる

北周の第5代皇帝・静帝のもとで左大丞相となった楊堅が北周で実権を握ると、蘇威は楊堅の側近・高熲に推薦されました。

でも、楊堅が皇帝の座を狙っていると知った蘇威は朝廷に関わることを嫌い、故郷に帰ってしまいました。
高熲は蘇威を追いかけようとしましたが、楊堅は蘇威がいつか戻ってきてくれると信じ、高熲を止めました。

581年、楊堅が隋を建国し、初代皇帝・文帝として即位すると、蘇威は都に呼ばれ、太子少保に任命されました。
その後、納言、戸部尚書を兼任し、高熲と共に楊堅の片腕として活躍しました。

隋の律令を制定し、法整備にも貢献しました。

初めて免官される

592年、蘇威の子ども・蘇夔が国子博士・何妥と宮中の音楽を巡って口論しました。
蘇威を恐れた者は蘇夔に従い、何妥は面子をつぶされてしまいました。

おゆう
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そこで、何妥は腹いせに「蘇威が派閥を組んでいる」と嘘の上奏をしました。

蘇威は免官処分となりました。

ところが、片腕である蘇威が失った楊堅は政務に支障をきたし、蘇威をすぐに呼び戻して、再び尚書右僕射に任命しました。

再び免官される

文帝の第2皇子・楊広が煬帝として即位し、607年、煬帝の怒りを買った高熲は処刑されてしまいました。

高熲と親しかった蘇威は連座して免官処分となりましたが、やっぱり蘇威がいなければ政務に支障が生じ、すぐに呼び戻されて、納言となり、宇文述と共に煬帝の片腕として活躍しました。

612年に行われた高句麗遠征では、左武衛大将軍を兼任しました。

おゆう
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この時、蘇威は既に70歳。

高齢を理由に、職を辞して、故郷に帰りたいと申し出ましたが、煬帝は許しませんでした。

投獄される

613年、煬帝は再び高句麗遠征を行うことにしました。

敗北が目に見えていた蘇威は、煬帝に高句麗遠征を中止するように諫言しましたが聞き入れられませんでした。

その後も、煬帝に度々諫言し、煬帝の怒りを買って、投獄されることがありましたが、蘇威がいなければ政務がはかどらなかったため、すぐに許されました。

煬帝に諫言しても聞き入れられなかった蘇威は、煬帝への諫言を諦めて、勃発した反乱の規模を過小に報告するなど、煬帝のご機嫌をうかがうようになりました。

82歳で亡くなる

618年、煬帝の側近・宇文述の子ども・宇文化及が煬帝を殺すと、蘇威は光禄大夫、開府儀同三司となって、宇文化及に仕えました。
その後、宇文化及を殺した李密に、李密を殺した王世充に仕え、621年、唐に帰順して、82歳で亡くなりました。

まとめ

蘇威の生涯を紹介しました。

蘇威は北周の第3代皇帝・武帝(宇文邕)の従弟・宇文護と姻戚関係になり、北周でエリート街道を歩んだ後、隋の初代皇帝・文帝(楊堅)、第2代皇帝・煬帝(楊広)に仕えました。

実直な蘇威は煬帝に度々諫言しましたが、聞き入れられず、それどころか、免官されたり、投獄されたりしました。
でも、蘇威がいなければ政務がはかどらず、煬帝は蘇威を処分した後すぐに、都に呼び戻しました。

煬帝が崩御した後、宇文化及、李密、王世充と、隋末に割拠した群雄に仕え、最後には唐に帰順しました。
蘇威を必要としていたのは、煬帝だけではなかったのかもしれませんね。

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