【隋】梁書、陳書を完成させた姚察と姚思廉ってどんな人?

南朝・梁と陳の歴史書である「梁書」と「陳書」は、姚察と姚思廉の親子によって完成しました。

姚察と姚思廉は、どのような人物なのでしょうか。

姚察と姚思廉の生涯を紹介します。

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姚察ってどんな人?

姚察は533年生まれで、呉興郡武康県(浙江省湖州市)の出身。

父は梁で車騎大将軍を務め、また、医師としても大活躍した姚僧垣です。

南海王左常侍兼司文侍郎となる

幼い頃から遊びより勉強が好きで、6歳で「書経」を暗唱し、12歳で誰もが驚くような文章を作りました。
13歳の頃、梁の第2代皇帝・簡文帝(蕭綱)から才能を見出され、南海王左常侍兼司文侍郎に任命されました。

548年、侯景の乱が勃発し、都・建康に住むことができなくなったため、両親と共に故郷に帰りました。

戦乱により、故郷でも飢えに苦しむ人々が多く、大家族だった姚察は兄弟に自分の食事を渡し、姚察自身は葉を食べて過ごしました。
どんなに空腹であっても、勉強をやめることはありませんでした。

原郷県令となる

552年、第4代皇帝・元帝(蕭繹)が荊州(湖北省荊州市)で即位すると、父・姚僧垣と共に元帝を訪ね、原郷県令に任命されました。

長引く戦乱により、国は疲弊していましたが、姚察は税や労役を軽減して民をいたわり、また、土地を耕すなど、民が農業に励みやすい環境を整えました。

史書の編纂にあたる

姚察は領著作である杜之偉や徐陵と共に史書の編纂にあたりました。
姚察は二人の補佐として編纂に携わりましたが、徐陵は「文章力は、姚察には及ばない」と言って、姚察を高く評価しました。

辞職を希望した徐陵が、姚察に上奏文の作成をお願いしたところ、徐陵の期待をはるかに超える上奏文の草案が完成し、徐陵は改めて姚察を高く評価しました。

北周に派遣される

569年、陳で通直散騎常侍となり、使者として北周に出向きました。

北周の宇文護のもとで、記室を務めていた劉臻は、「漢書」について述べた姚察の意見を聞いて、「姚察は噂どおりの男だった」と言いました。

おゆう
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姚察は陳だけでなく、北周でも有名だったんですね。

北周から戻った姚察は東宮学士となった後、尚書祠部侍郎に任命されました。

尚書祠部侍郎とは、皇帝祭祀である郊廟を担当する官職です。

喪に服すことを許されず働く

仁威府諮議参軍、そして、平南府諮議参軍に任命されましたが、母が亡くなり喪に服すため、辞職して故郷に戻りました。

ところが、喪が明けないうちに、戎昭将軍に任命され、また、梁の歴史書を編纂するように命じられました。

おゆう
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喪が明けていないことを理由に断りましたが、受け入れられませんでした。

その後、戎昭将軍と東宮通事舎人を兼任し、583年には、中書侍郎に任命されて、太子僕となりました。

母の喪が明ける直前に、父・姚僧垣が長安で亡くなり、再び喪に服すことになりました。

姚察を心配した第5代皇帝・後主(陳叔宝)は中書舎人・司馬申を派遣し、悲しむあまり、姚察が身体を壊さないように監督しました。
また、姚察の気を紛らわせようと、後主は忠毅将軍兼東宮通事舎人に任命しました。

おゆう
おゆう

姚察は喪中であることを理由に辞退しようとしましたが、これも許されませんでした。

「中書表集」を編纂する

喪が明けると、給事黄門侍郎、領著作に任命されました。

その後、秘書監を兼任することとなり、秘書省で「中書表集」を編纂しました。

功績を称えられた姚察は散騎常侍となり、588年、領著作兼度支尚書となり、しばらくして、吏部尚書に任命されました。

「梁書」と「陳書」の編纂にあたる

589年、隋軍が陳を攻め入城すると、城内の人々は皆逃げ出しましたが、姚察は逃げることなく城内に残りました。

隋が陳を滅ぼすと、姚察は隋の初代皇帝・文帝(楊堅)から秘書丞に任命され、「梁書」と「陳書」を編纂するように命じられました。

文帝は姚察の才能を高く評価し、「陳を討伐して得られたのは、姚察だけだった」と言いました。

74歳で亡くなる

602年、員外散騎常侍となり、後に第2代皇帝・煬帝となる皇太子・楊広の第1皇子・楊昭の教育係を務めました。
また、楊広から度々呼び出されて、書物を持って足を運びました。

煬帝が即位すると、太子内舎人に任命され、煬帝の巡幸に付き添いました。

おゆう
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煬帝には、楊素や張衡、蘇威など、多くの側近がいましたが、諮問に答えることができたのは、姚察だけでした。

606年、東都・洛陽にて、74歳で亡くなりました。

姚思廉ってどんな人?

姚思廉は557年生まれで、父・姚察と同じ呉興郡武康県の出身。

姚思廉は姚察から「漢書」を習って育ち、陳で会稽王主簿を、隋で漢王府参軍事を務めました。
姚察が亡くなり、喪に服すため辞職しましたが、喪が明けると、河間郡司法書佐になりました。

「区宇図志」を編纂する

隋の第2代皇帝・煬帝(楊広)から、「区宇図志」を編纂するように命じられ、起居舎人・崔祖濬と共に編纂しました。

「梁史」と「陳史」を編纂する

唐で、後に第2代皇帝・太宗となる李世民が開いた秦王府で、文学館学士を務めました。

初代皇帝・文帝(楊堅)の皇子である李建成、李元吉、李世民の3人が玄部門の変を起こし、李世民が皇太子に冊立されると、姚思廉は太子洗馬に任命されました。

627年には、著作郎・弘文館学士に任命され、太宗の側近である魏徴と共に、「梁史」と「陳史」を編纂。
636年に、50巻にも及ぶ「梁書」と30巻にも及ぶ「陳書」を完成させました。

功績を称えられた姚思廉は散騎常侍となり、豊城県男に封じられましたが、翌年、637年に亡くなりました。

まとめ

姚察と姚思廉の生涯を紹介しました。

国内はもちろん、国外でも名をとどろかせた姚察は、「梁書」と「陳書」の編纂にとりかかりましたが、74年の生涯の間に完成させることができませんでした。

文章の才能にあふれた姚察に育てられた姚思廉は、「梁書」と「陳書」の編纂を引き継ぎ、合計80巻にも及ぶ歴史書を完成させました。

姚思廉が「梁書」と「陳書」を完成させた時、姚察もきっと喜んだでしょうね。

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