隋の初代皇帝・文帝(楊堅)と第2代皇帝・煬帝(楊広)に、献身的に仕えた側近・高熲。
ところが、晩年、高熲は庶民に落とされ、最期は処刑されてこの世を去りました。
高熲とはどのような人物なのでしょうか。
高熲の生涯、失脚した理由を紹介します。
宰相・高熲ってどんな人?
高熲は東魏で諫議大夫を、西魏で銀青光禄大夫を、北周で散騎常侍を務めた高賓の子どもです。
北周で下大夫となる
幼い頃から賢く、史書に通じ、弁舌に長けていた高熲は、北周の基礎を築いた宇文泰の7男・宇文憲に記室参軍として仕えました。
宇文泰の4男・宇文邕が北周の第3代皇帝・武帝として即位すると、内史上士を経て、下大夫となりました。
その後、異民族の反乱を鎮圧するなどして、着実に功績を上げました。
楊堅の側近となる
楊堅が北周の第5代皇帝・静帝のもとで左大丞相となって北周の実権を握ると、高熲は相府司録に抜擢されました。
以前から楊堅は高熲の才能を高く評価していたため、高熲は楊堅の側近として活躍し始めました。
580年、楊堅が実権を握っていることに不満を抱いていた相州総管・尉遅迥が反乱を起こすと、総大将・韋孝寛に続いて、高熲は自ら参謀として、尉遅迥のもとへ向かい、反乱を鎮圧しました。
手柄を立てた高熲は相国司馬となりました。
陳を滅ぼす
581年、楊堅が隋を建国し、初代皇帝・文帝として即位すると、高熲は尚書左僕射、納言となり、左衛大将軍を兼任しました。
その後、突厥の侵入を食い止め、左領軍大将軍となり、高熲は朝廷における権力を拡大していきました。
母が亡くなり、辞職して故郷に戻りましたが、喪が明けると、詔勅によってすぐに都に呼び戻されました。
589年、陳の都・建康を攻略して、陳を滅ぼしました。
参謀として活躍する一方、高熲は優秀な人材を次々と推薦しました。
高熲が推薦した人物は皆活躍したことから、高熲には人事の才能もあったと考えられます。
免官され、庶民となる
598年、高熲は文帝の第5皇子・楊諒と共に、高句麗に遠征することになりました。
総大将は楊諒でしたが、楊諒は23歳で若かったため、軍を高熲に一任しました。
楊諒は軍を高熲に一任したにも関わらず、高熲の案に異議を唱え、戦略がまとまらず、高句麗遠征は失敗に終わりました。
また、599年、謀反を企んだ罪で、涼州総管・王世積が捕らわれると、王世積と仲の良かった高熲は連座して罪に問われ、免官処分となり、庶民に落とされました。
処刑されて亡くなる
604年、文帝の第2皇子・楊広が第2代皇帝・煬帝として即位すると、高熲は都に呼び戻されて、太常となりました。
ところが、煬帝の金遣いの荒さを指摘し、煬帝の怒りを買ったため、607年、高熲は処刑されて亡くなりました。
失脚した理由は?
宰相として活躍した高熲は、免官処分となり、庶民に落とされて失脚し、最期は処刑されて亡くなりました。
免官処分となり、庶民に落とされた理由は高句麗遠征に失敗したこと、そして、王世積の罪に連座したこと、処刑された理由は煬帝の怒りを買ったことにあります。
でも、免官処分となる前から、高熲には失脚する理由があったんです。
独孤伽羅に嫌われていたから
高熲は文帝の正妻・独孤伽羅に嫌われていました。
何故、独孤伽羅は高熲を嫌っていたのでしょうか。その理由は2つあります。
「たった一人の女」呼ばわりされたから
独孤伽羅は嫉妬深く、文帝に一夫一妻制を強いていました。
独孤伽羅が亡くなるまで、文帝は側室を抱えませんでしたが、一度だけ、独孤伽羅に隠れて、独孤伽羅以外の女性と深い仲を築いてしまったんです。
相手は尉遅迥の孫・尉遅熾繁で、誰もが目を奪われるほどの美女でした。
文帝と尉遅熾繁が深い仲を築いたと知った独孤伽羅は、尉遅熾繁を斬り殺してしまいました。
尉遅熾繁を失った、また、独孤伽羅の怖さを知った文帝はショックを受けて、宮廷を飛び出しました。
高熲は文帝を追いかけ、文帝の心を落ち着かせて、宮廷に連れて帰りました。
独孤伽羅は高熲に感謝しましたが、高熲が「たった一人の女性(独孤伽羅)のために、国を不安にさせてはいけません」と言って文帝を諫めたことを知った独孤伽羅は高熲を嫌うようになりました。
高熲には愛人がいたから
妻を亡くした高熲に、独孤伽羅は再婚を勧め、女性を紹介しようとしたところ、高熲は「失くした妻だけを愛したい」と言って断りました。
一夫一妻制を強いていた独孤伽羅は高熲の一途な想いに胸を打たれました。
ところが、しばらくすると、高熲に子どもが誕生しました。
愛人がいたこと、愛人が妊娠していたことを独孤伽羅に隠して、独孤伽羅が準備した縁談を断ったんです。
高熲に嘘をつかれた独孤伽羅は、高熲をますます嫌うようになりました。
楊勇と仲が良かったから
文帝の第1皇子・楊勇は側室ばかり寵愛して、正妻を精神的な病に追い込み、文帝や独孤伽羅から嫌われていました。
ところが、楊堅の側近であるにも関わらず、高熲は楊勇を支持しました。
というのも、楊勇の第2皇女・大寧公主と高熲の子ども・高表仁は結婚していて、楊勇と高熲は姻戚関係にあったからです。
楊勇を支持した高熲は、文帝や独孤伽羅から疑われるようになりました。
煬帝に憎まれたから
即位前、煬帝は高熲と共に陳を討伐しました。
煬帝は第5代皇帝・後主(陳叔宝)の側室・張貴妃を後宮に迎えようと思っていましたが、張貴妃が煬帝の手に渡る前に、高熲は張貴妃を殺してしまいました。
煬帝は高熲を憎むようになりました。
まとめ
高熲の生涯、失脚した理由を紹介しました。
高熲は隋の初代皇帝・文帝(楊堅)と第2代皇帝・煬帝(楊広)に仕えましたが、高句麗遠征に失敗したり、謀反を企んだ王世積に連座したりして、免官処分、庶民降格となりました。
また、煬帝に諫言したことで、煬帝の怒りを買い、最期は処刑されてしまいました。
文帝や煬帝だけでなく、文帝の正妻・独孤伽羅から嫌われていたことを考えると、手柄を立てても、いつか高熲は殺される運命にあったのかもしれませんね。
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