東魏と北斉の歴史書である「北斉書」は、李徳林と李百薬の親子によって完成しました。
李徳林と李百薬は、どのような人物なのでしょうか。
李徳林と李百薬の生涯を紹介します。
李徳林ってどんな人?
李徳林は531年生まれで、博陵安平(河北省衡水市)の出身。
幼い頃から頭が良く、家族思い。
綺麗な文字を書き、15歳で五経を暗唱しました。
まるで出木杉君。
557年、秀才科に合格した後、北斉で通直散騎侍郎に任命されました。
576年、北周の第3代皇帝・武帝が北斉を平定すると、李徳林は北周に仕えることとなり、陽休之や顔之推と共に長安に入りました。
その後、中書侍郎となり、東魏と北斉の歴史書「斉史」の編纂を任されました。
581年、北周の第5代皇帝・静帝から禅譲を受け、大丞相・楊堅が隋を建国。
楊堅が隋の初代皇帝・文帝として即位すると、李徳林は内史令となりました。
仕える国が変わっても、順調に出世してきた李徳林。
ところが、李徳林の出世の道が途絶える事件が起きます。
北周の静帝から禅譲を受けたものの、文帝は北周の宗室が復讐するのではないかと恐れていました。
そこで、文帝は北周の宗室を殺して一掃することにしました。
文帝の考えを知った李徳林は、北周の宗室を殺す必要はないと諫めました。
李徳林の諫言に腹を立てた文帝は「本ばかり読んでいるくせに、口を出すな」と言って、李徳林を叱りました。
この事件をきっかけに、李徳林と文帝の間に溝が生まれました。
589年、陳を平定すると、李徳林は安平郡公に封じられましたが、文帝は李徳林を警戒したまま。
地方行政制度の一つである郷里制について、朝廷で取り上げた時、李徳林は文帝の側近・高熲と対立しました。
文帝は李徳林に対する警戒心を強め、また、李徳林は大臣の反感を買ってしまいました。
朝廷で目の敵にされた李徳林は土地売買の不正を告発されて、懐州(河南省焦作市)刺史に左遷となりました。
李百薬ってどんな人?
李徳林の子ども・李百薬は565年生まれで、李徳林と同じ博陵安平の出身です。
李百薬は生まれつき身体が弱く、服用する薬の量が多かったため、祖母が「百薬」と名付けました。
蔭位の制によって、三衛長に任命された後、隋が建国された581年には、太子通事舎人、東宮学士に任命されました。
東宮学士とは、皇太子に経書を教える役職です。
599年、李徳林が封じられた安平郡公の爵位を継承し、また、礼部員外郎となりました。
ところが、文帝の第2皇子・楊広(後の第2代皇帝・煬帝)からの呼び出しに応じず、李百薬は爵位を剥奪され、桂州(広西チワン族自治区桂林市)司馬に左遷されてしまいました。
その後、煬帝の悪政によって、国内は大混乱。
李百薬は与えられた役職の任務を放り出し、第4代皇帝・恭帝のもとで大司馬を務めた沈法興に仕えました。
やがて、沈法興は呉を建国した李子通の攻撃を受け、李百薬は李子通に帰順しました。
その後、唐の初代皇帝・高祖となる李淵に帰順し、隋をはじめ、乱立する王朝の平定に貢献しましたが、嫌疑をかけられ、涇州(甘粛省平涼市)司馬に左遷されました。
628年には礼部侍郎に、630年には太子右庶子となり、皇太子・李承乾の教育にあたりました。
そして、636年、李徳林が編纂した「斉史」に、王邵の「北斉志」の資料を加えて、より詳しい「斉史」を編纂しました。
648年、84歳で亡くなりました。
まとめ
李徳林と李百薬の生涯を紹介しました。
「北斉書」を完成させた李徳林、李百薬親子。
二人の共通点は、文章の才能があったこと、そして、君主である皇帝に諫言したり、従わなかったりと頑固な一面があったことです。
仕える王朝が変わると、文化も多少変わります。
李徳林と李百薬はその変化に対応しきれなかったのかもしれませんね。
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