中国史上、暴君として名を残した隋の第2代皇帝・煬帝(楊広)。
煬帝とはどのような人物なのでしょうか。
何故、暴君と呼ばれたのでしょうか。
煬帝(楊広)の生涯、暴君と呼ばれた理由を紹介します。
煬帝(楊広)ってどんな人?
煬帝は569年生まれで、父・楊堅と母・独孤伽羅の第2皇子として誕生しました。
名前は楊広といいます。
楊堅が隋を建国し、初代皇帝・文帝として即位すると、楊広は晋王に封じられました。
陳討伐で手柄を立てる
589年、文帝は陳の討伐に乗り出し、楊広を総帥に任命しました。
楊広は50万人の兵を指揮して、陳を攻撃し、陳を滅亡させました。
陳を倒した暁には、楊広は張貴妃を側室に迎えようと考えていました。
張貴妃が傾国の美女になり得ると恐れた高熲は、張貴妃を発見するとすぐ斬りました。張貴妃が高熲に斬られたと知った楊広は、高熲を恨むようになりました。
皇太子・楊勇を排除する
文帝が即位し、皇太子に選ばれたのは第1皇子・楊勇でした。
皇太子に選ばれたものの、楊勇は文帝と独孤伽羅から嫌われていました。
そこで、楊勇を皇太子の座から引きずり下ろし、自ら皇太子になろうと、楊広は文帝と独孤伽羅から好かれることに努めました。
例えば、文帝から使者が派遣されると、正妻・蕭氏に手料理と手土産を準備させ、使者にご馳走したうえで、手土産を渡しました。
ご馳走されたうえに手土産を受け取った使者が、楊広の悪口を言うわけがありません。
文帝に謁見した使者は、楊広を褒め称えました。
また、文帝と独孤伽羅が訪ねてくると知ると、楊広は側室と贅沢品を別室に閉じ込めました。
部屋にいるのは蕭氏と年老いた女官だけ。
きらびやかなカーテンを質素なカーテンに取り換え、弦の切れた琴を置き、わざわざ埃を被せました。
質素なカーテンと弦の切れた琴は、長い間、宴会を開いていない証拠。
楊広が正妻だけを大切にし、倹約した生活を送っていると思った文帝と独孤伽羅は、楊広こそ、皇太子にふさわしいと思うようになりました。
自分が気に入られていると判断した楊広は、楊勇に嫌がらせをされていると嘘をつき、文帝と独孤伽羅の心を揺さぶりました。
更に、楊広は楊勇の廃位に協力してくれそうな大臣を探し、尚書右僕射・楊素と右衛大将軍・宇文述を頼りました。
楊広はまず楊素と宇文述を抱き込み、楊素の弟・楊約を抱き込みました。
楊素は用心深い性格で、独孤伽羅を訪ねて、楊広に対する印象をたずね、独孤伽羅が楊広を皇太子にしたがっていると確信した楊素は、楊広に協力することにしました。
次に、楊広は楊勇の側近・姫威を買収。
楊勇の欠点や悪行を収集し、楊素に噂を流させました。
噂が広まったのを確認すると、楊広は姫威を脅し、楊勇の廃位を上奏するように言いました。
後に退けなくなった姫威は、楊勇がクーデターを企てていると嘘の密告をしました。
皇太子になる
600年、文帝は楊勇を廃して、第2皇子・楊広を皇太子に選びました。
楊勇の身柄は楊広に引き渡され、楊広の監督の下、生きていくことになりました。
クーデターを企てたことはないと、楊勇は文帝に聞こえるように大声で弁解しましたが、楊素は「精神を患ってしまったようだ」と言って、楊勇と面会しないよう、文帝に進言しました。
文帝を暗殺する
604年、文帝が病で伏せるようになると、文帝の見舞いと称して、楊広は文帝の後宮に出入りし始めました。
文帝には、楊広が親孝行をしているように見えていましたが、実は楊広は文帝の側室の品定めをしていたんです。
文帝がベッドから起き上がれなくなったのをいいことに、楊広は文帝の側室・宣華夫人に手を出そうとしました。
事態を察知した宣華夫人は楊広から慌てて逃げ出し、文帝に告げ口しました。
この時初めて、楊広が正妻だけを寵愛しているのは見せかけだったこと、楊広に騙されていたことを知り、楊勇を廃したことを後悔しました。
ちょっと待ってください!文帝に側室がいたんですか?
確かに、嫉妬深い独孤伽羅は文帝が側室を迎えることを許しませんでした。
でも、宣華夫人は例外。
独孤伽羅に会うなり、宣華夫人は「もっと綺麗な女性がいるのに、私なんかが陛下のもとへやって来て申し訳ございません」と挨拶したんです。
宣華夫人の謙虚さに胸を打たれた独孤伽羅は、宣華夫人が側室となることを許しました。
楊勇を呼び出して、皇太子に再び選ぼうと、文帝は側近・柳述、元厳に命令しました。
柳述、元厳は左僕射・楊素に、楊勇を呼び出すように命令しました。
でも、楊素は楊広の側近。
文帝が楊勇を再び皇太子にしようとしていることを知った楊広は、文帝を暗殺してしまいました。
文帝を暗殺した後、楊広は宣華夫人に指輪を届けました。
文帝が暗殺されたこと、そして、楊広に身を委ねるしか、自分が生き残るすべがないこと。
全てを悟った宣華夫人が指輪を受け取り、楊広の側室になりました。
即位する
文帝が崩御した後、楊広は隋の第2代皇帝・煬帝として即位しました。
煬帝は弟・楊秀を軟禁、楊諒を幽閉し、第1皇子・楊昭を皇太子に選びました。
独孤伽羅と文帝に厳しく育てられた煬帝は、これまで倹約した生活を送っていましたが、皇帝に即位すると豪勢な生活を送るようになりました。
また、反乱を起こした者は九族(高祖父母から玄孫までの9代)を処刑するなど、重い罰を与えるようになりました。
大運河を建設する
大運河の建設は文帝の治世から始まっていましたが、煬帝は黄河と淮水を結ぶ通済渠、黄河と天津を結ぶ永済渠、長江と杭州を結ぶ江南河を建設しました。
通済渠の建設には100万人にも及ぶ民が動員され、女性もかり出されました。
建設者・宇文愷は、江南で収穫した穀物を東北に運ぶ目的で、永済渠を建設しているものだと思っていました。
でも、煬帝は高句麗遠征のために必要な食糧を運ぶ目的で、永済渠を建設させました。
高句麗遠征を行う
煬帝は高句麗遠征を3回行いました。
1回目の高句麗遠征は、612年に行われました。
黄河と天津を結ぶ永済渠が完成し、物資を運ぶ体制が整ったからです。
613年、2回目の高句麗遠征が行われました。
この年は全国的に干ばつが起きていて、多くの民が食糧に困り、張金称や高士達をはじめとする群盗が、国が保管している食糧を狙って反乱を起こしていました。
高句麗という外国ではなく、煬帝は隋国内に目を向けなければいけなかったのに、煬帝を諭すどころか、高句麗遠征に賛同した人物がいました。
第一回高句麗遠征で大敗した宇文述です。
大敗した責任として、宇文述は官職を剥奪されていました。
宇文述は第二回高句麗遠征で手柄を上げて、返り咲きたかったんですね。
最後の高句麗遠征が行われたのは614年。
煬帝は高句麗に朝貢国となるように求めましたが、高句麗が朝貢国になることはありませんでした。
煬帝の高句麗遠征は全て失敗に終わりました。
突厥に攻められる
615年、突厥の始畢可汗が煬帝に挨拶しに、隋を訪れることになっていました。
煬帝は始畢可汗をもてなそうと準備していましたが、隋に足を踏み入れるなり、突厥は隋軍に次々と矢を放ちました。
これまで、突厥には千金公主をはじめ、光化公主、義成公主などが、和蕃公主として降嫁しましたが、突厥は隋を裏切ったんです。
煬帝は雁門(山西省忻州市)で突厥に包囲されてしまいました。
煬帝は「突厥を退却させた者には褒美を与える」と約束し、従兄弟・李淵の次男・李世民をはじめ、宇文述や樊子蓋に救われました。
でも、煬帝は誰にも褒美を与えませんでした。
煬帝が褒美を与えなかったことで、反乱の数は更に増えてしまいました。
約束したのだから褒美を与えるべきだと進言した臣下は罷免して投獄され、このままでは国が滅びてしまうと進言した臣下は処刑されてしまいました。
江都に移る
宇文述は江都で静養してはどうかと、煬帝に進言しました。
万が一、反乱が起きて、長安を占拠されても、長安から離れた江都であれば、隋を存続させることができると考えたからです。
すると、煬帝は喜び、江都に向かう準備をし始めました。
煬帝の第1皇子・楊昭は、606年に22歳の若さで病死しました。
そのため、煬帝は楊昭の子ども・楊倓、楊侗、楊侑の3人を可愛がっていました。
江都には楊倓を連れて行き、洛陽に楊侗を、長安に楊侑を残しました。
煬帝は孫と離れたくなかったと思うんですけど、どうして?
煬帝が3人の孫を散らした理由は、3箇所に離していれば、反乱が起きても、誰か一人は生き残るだろうと考えたからです。
江都に向かっている途中、宇文述が過労死し、煬帝は相談相手を失ってしまいました。
李淵(後の唐の初代皇帝・高祖)が挙兵する
各地の反乱を鎮圧するために、長安に配備されていた兵は宮廷を離れていました。
長安の守備が手薄になった今こそ、長安を陥落できると考えた李淵は、長安をあっという間に占拠しました。
それでも、煬帝が国の危機を感じることはありませんでした。
50歳で崩御する
618年、国の危機に目を向けず、反乱を鎮圧しようとせず、江都で側室に囲まれてのうのうと暮らす煬帝に、官吏達の堪忍袋の緒が切れました。
司馬徳戡、趙行枢、薛世良は宇文化及を指導者として反乱を企てました。
宇文化及は弟・宇文智及と共に、禁軍を取りしきっていました。
反乱を起こすことに宇文化及と宇文智及が賛同すれば、反乱は成功します。
宇文化及は禁軍を率いて、宮中で側室と戯れる煬帝を捕らえました。
煬帝を大広間まで連れて行こうと、馬に乗るように言ったところ、煬帝は「皇帝が乗る馬ではない。もっと綺麗な馬を連れてくるように」と言いました。
煬帝は綺麗な馬に乗り、大広間へ向かいました。
何故、煬帝を大広間に連れてきたかったのかというと、煬帝が処刑される姿を、できるだけ多くの民に見せたかったからです。
煬帝の末子・楊杲は13歳で、煬帝に抱きついて泣いていました。
反乱軍は楊杲を斬り、続いて、煬帝を斬ろうとしました。
煬帝は「皇帝には皇帝の死に方がある。毒酒を持ってくるように」と命じました。
煬帝は万が一に備えて毒酒を持ち歩いていましたが、この時、たまたま持ち歩いていませんでした。
煬帝の命令を聞く者はおらず、煬帝は宇文化及に絞殺されました。
暴君と呼ばれた理由
煬帝が暴君と呼ばれた理由は、紹介した生涯から分かるように、民の生活を困窮させたからです。
男性はもちろん、女性をも動員して、煬帝は大運河を建設しました。
また、大運河が建設すると、3度も高句麗に遠征しました。
民の食糧は遠征する兵に与えられました。
1度どころか、2度も失敗している高句麗遠征が、3度目で成功するわけがありません。
にも関わらず、自分の名声を獲得するためだけに、高句麗遠征を続けました。
民の苦しむ姿に目を向けず、民をより苦しめた煬帝は、暴君と評価されてもしかたがないのかもしれませんね。
まとめ
煬帝(楊広)の生涯、暴君と呼ばれた理由を紹介しました。
煬帝は兄・楊勇を排除して皇太子になり、父・文帝を暗殺して皇帝になりました。
即位した煬帝は大運河を建設したり、高句麗遠征をしたりして、民の生活を困窮させました。
中国だけでなく、世界にも暴君と呼ばれた皇帝は存在します。
暴君と呼ばれた皇帝はいずれも、民を苦しめるような悪政を行いました。
皇帝は国のトップですが、その皇帝を評価するのは民だと考えると、現代に通じるものがありますね。
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