隋の初代皇帝・文帝(楊堅)には、妻・独孤伽羅との間に、第1皇子・楊勇、第2皇子・楊広(後の第2代皇帝・煬帝)の他、3人の皇子がいました。
3人の皇子・楊俊、楊秀、楊諒とは、どのような人物なのでしょうか。
文帝(楊堅)の子ども・楊俊、楊秀、楊諒の生涯を紹介します。
第3皇子・楊俊
楊俊は571年生まれ。
隋が建国されると秦王に封じられ、582年には、河南道行台尚書令、洛州(河南省洛陽市)刺史に任命されました。
翌年、583年には、秦州(甘粛省天水市)総管となりました。
出家を反対される
楊俊は熱心な仏教徒で、出家を願い出ましたが、文帝は当然反対しました。
586年には、山南道行台尚書令となり、陳を討伐する際には、山南道行軍元帥として、水軍、陸軍合わせて10万人を超える兵を指揮しました。
その後、揚州(江蘇省鎮江市)総管に任命されました。
文帝は楊俊に出家を諦めさせようと、次々と仕事を与えました。
楊俊は出家を諦めましたが、やがて、文帝に対して反発心が芽生え始めました。
民に貸し付けを行う
楊俊は太原府(山西省太原市)に豪華な宮廷を建て、工芸品や珠玉を収集しました。
また、側室に華やかな衣装を与え、部屋いっぱいに鏡や宝珠を置きました。
そして、毎日のように、妓女や楽団を招き、宴会を開きました。
贅沢な暮らしを送っていた楊俊は、領地の租税だけで、生活費を賄えないようになりました。
そこで、自ら高利貸しを始め、借金の必要がない民に強制的に貸し付けを行いました。
お金に困っていなかった民であっても、お金を貸し付けられたら、民は高い利子を支払わなければいけません。
楊俊の領地の民は生活が厳しくなりました。
妻・崔氏に毒を盛られる
楊俊の悪行を知った文帝は、加担した楊俊の部下100人を処刑。
楊俊は未成年だったため、処刑は行わず、厳しく叱りつけるだけとなりました。
ところが、楊俊は行動を改めません。
そんな楊俊にとどめを刺したのが、妻・崔氏です。
崔氏は文帝の妻・独孤伽羅に負けない嫉妬深い性格の持ち主で、楊俊が側室を着飾らせていること、宴会に妓女を招いていることに不満を抱いていました。
堪忍袋の緒が切れた崔氏は、楊俊が食べる瓜に毒を入れました。
まさか、妻が自分を毒殺しようとしているなんて思ってもいなかった楊俊は、全く疑わずに、崔氏から勧められるままに瓜を食べてしまいました。
改心しなかった楊俊に同情の余地はなく、文帝は楊俊を都に呼び戻し、官職を剥奪。
宮廷から出ることを許されず、劉昇や楊素は楊俊の罪を許すように上奏しましたが、文帝は許しませんでした。
身体から毒が抜けず、ついに起き上がれなくなった楊俊は、今までの悪行を謝罪しましたが、文帝は今更遅いとして叱りました。
600年、楊俊は29歳の若さで亡くなりました。
楊俊が集めていた工芸品や珠玉は焼き捨てられ、簡素な葬式が執り行われました。
楊俊に毒を盛った崔氏は自害を命じられました。
第4皇子・楊秀
楊秀は573年生まれ。
蜀王に封じられる
隋が建国されると、蜀王に封じられ、蜀(四川省成都市)の領主となりました。
蜀は揚子江の上流の盆地にあり、都からかけ離れています。
つまり、都で反乱が起きたり、異民族に攻められたりした場合に、蜀まで無事逃げきることができれば、蜀で改めて建国できる可能性があったんです。
文帝は万が一の事態を見据えて、武芸に秀でていた楊秀に蜀を任せました。
庶人に落とされる
でも、楊俊と同じように、楊秀も贅沢な暮らしを送りました。
やがて、調子に乗った楊秀は、文帝と同じ輿を使い、同じ服を着るようになりました。
皇帝が乗る輿、着る服は特別なもので、皇帝である文帝以外の者が輿を使ったり、服を身にまとったりすることは禁じられていました。
楊広は文帝に楊秀の悪行を告げ口。
602年、楊秀は長安に呼び戻され、官職を剥奪されたうえに、庶人に落とされました。
618年、宇文化及によって殺され、46歳でこの世を去りました。
第5皇子・楊諒
楊諒は575年生まれ。
漢王に封じられる
文帝は末子の楊諒を特に可愛がり、隋が建国されると、漢王に封じて、漢水(陝西省漢中市)の統治を任せました。
楊諒が統治する地域は、突厥の隣り合わせ。
突厥の侵入に備えて、最強の軍隊を与えられました。
クーデターを起こす
文帝の第1皇子・楊勇は皇太子を廃され、第3皇子・楊俊は妻に毒殺され、第4皇子・楊秀は楊広の告げ口によって、庶人に落とされました。
安定した生活を送ることができていたのは、長安から離れていた楊諒だけ。
他の兄弟のように、いつか殺されたり、庶人に落とされたりするのではないかと、楊諒はおびえるようになりました。
604年、文帝が崩御し、楊広が煬帝として即位すると、楊諒の予感は的中。
楊諒が最強の軍隊を率いて、都を攻めるのではないかと思った煬帝は、楊諒を始末することにし、楊諒を都に呼び寄せようと、文帝の字体を真似て、勅書をしたためました。
でも、楊諒は勅書が偽物だとすぐに気づきました。
というのも、楊広の次に楊諒を頼りにしていた文帝は、楊諒が騙されないように、楊諒との間に秘密の約束を交わしていたんです。
① 文帝が作成する勅書には、「勅」の文字のそばに「・」(点)を付ける
② 「・」が付いていなければ、勅書は偽物なので、命令に従わないように
というもの。
煬帝が作った勅書には、「・」が付いていませんでした。
煬帝が自分を殺そうとしていると気付いた楊諒は、煬帝の側近・楊素がクーデターを企てていると嘘の檄文を飛ばし、都に一緒に攻める同志を募りました。
ところが、煬帝は楊諒より先に手を打っていて、楊諒が統治している52州のうち、楊諒に賛同したのは19州だけでした。
つまり、残りの32州は煬帝に従ったんです。
兵が少なくても、楊諒は都に攻め入らなければ殺されてしまいます。
でも、楊諒は兵の数を増やそうと、統治している州に出向いてしまいました。
この間に、煬帝は戦闘の準備を整え、楊諒はあっという間に捕らえられてしまいました。
楊素に罪を着せ、クーデターを企てた楊諒の罪は、本来死刑に処されるべきもの。
でも、煬帝は死刑を免じ、官職を剥奪して、庶民に落とし、楊諒を幽閉しました。
605年、楊諒は幽閉中に30歳で亡くなりました。
まとめ
文帝(楊堅)の子ども・楊俊、楊秀、楊諒の生涯を紹介しました。
民に高い利子で貸し付けを行い、民の生活を圧迫した楊俊の死は自業自得ですが、楊秀と楊諒の死は、後世に暴君として名を残す煬帝(楊広)によるもの。
どの王朝でも、兄弟間の争いは絶えないものですね。
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