【隋】文帝と煬帝が高句麗遠征を行った理由

唐の第3代皇帝・高宗の在位中である668年に、高句麗は唐に滅ぼされますが、隋の初代皇帝・文帝と第2代皇帝・煬帝も、高句麗に遠征していました。

何故、文帝と煬帝は高句麗に遠征したのでしょうか。

隋の文帝と煬帝が高句麗遠征を行った理由を紹介します。

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隋の文帝が高句麗遠征を行った理由

中国に対する東アジア諸国の使者派遣は、隋に入ってから始まったわけではありません。

隋が建国される前、隋が建国された後の東アジア諸国の使者の派遣状況を比較して、文帝が高句麗遠征を行った理由をみていきましょう。

隋が建国される前の東アジア諸国の使者の派遣状況

東アジアには、日本、百済、新羅、高句麗の4国が存在しました。

日本の使者の派遣状況

日本が中国に派遣した使者として、遣隋使や遣唐使が有名ですよね。

おゆう
おゆう

でも、日本が使者を派遣した国は、隋や唐だけではありません。

420年に中国南部に建国された南朝・宋にも、日本は使者を派遣していました。

この頃、中国北部には、北朝・北魏がありましたが、日本は北魏に使者を派遣しませんでした。

479年に宋が滅び、南朝には斉、梁、陳の3王朝が建国されましたが、日本が中国に使者を派遣したのは、宋が滅びて120年が経った600年。

600年に、日本は隋に第一回遣隋使を派遣しました。

百済の使者の派遣状況

朝鮮半島の南西にあった百済も、日本と同じように、南朝に使者を派遣しました。

ただし、日本が南朝・宋だけに使者を派遣したのに対し、百済は南朝の歴代王朝に使者を派遣し続けました。

高句麗の使者の派遣状況

南朝に使者を派遣した日本と百済に対し、高句麗は北朝・北魏が建国された386年からずっと、北朝に使者を派遣し続けました。

また、南朝・宋、斉、梁、陳の4王朝にも使者を派遣し続けました。

おゆう
おゆう

日本や百済とは違って、高句麗はどちらにもいい顔をしていたんですね。

高句麗は北朝と南朝から冊封を受けていました。

新羅の使者の派遣状況

百済の東部、つまり、朝鮮半島の南東にあった新羅は、北朝・北魏、北斉、南朝・梁、陳に使者を派遣しました。

使者を派遣しているという点では、日本、百済、高句麗と同じでしたが、新羅は他の3国に比べて、中国とは疎遠でした。

隋が建国された後の百済と高句麗の使者の派遣状況

中国が南北朝に分かれていた時代には、日本、百済、高句麗、新羅は、付き合う相手国を自由に選ぶことができました。

おゆう
おゆう

ところが、581年に隋が建国されると、状況が一変します。

南朝には陳が存在しましたが、隋に比べると陳は弱小国で、隋にいつ倒されてもおかしくない状況でした。

もし、日本、百済、高句麗、新羅が陳に使者を派遣したら、隋が陳を滅ぼした暁には、隋が攻めてくるかもしれません。

 

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

つまり、日本、百済、高句麗、新羅は隋と付き合うしかなくなったんです。

隋が建国された後、東アジア諸国はどこに使者を派遣したのでしょうか。

ここでは、日本、百済、高句麗、新羅の4国のうち、百済と高句麗にしぼって、隋が建国された後の使者の派遣状況をみていきましょう。

隋に使者を派遣する

隋が建国された581年、隋が中国を統一するかもしれないと判断した百済と高句麗は、隋に使者を派遣して、朝貢しました。

隋の文帝は百済の威徳王を上開府儀同三司、帯方郡公、百済王に、高句麗の平原王を大将軍、遼東郡公、高句麗王に任命しました。

上開府儀同三司は従三品の官職、大将軍は正三品の官職で、高句麗の地位は百済の地位より高かったことが分かります。

隋にとって、百済より高句麗との外交が大事だったんですね。

陳に使者を派遣する

ところが、百済が隋に使者を派遣したのは、581年から582年までのたった2年間。
高句麗と同じように、百済も陳に使者を送りました。

また、高句麗が隋に使者を派遣したのは、581年から584年までのたった3年間。
585年以降、高句麗は陳だけに使者を送りました。

おゆう
おゆう

紹介したように、隋にとって、陳は弱小国。

陳が滅ぶのは時間の問題なのに、何故、百済と高句麗は陳に使者を送るようになったのでしょうか。

その答えには、百済と高句麗、隋の位置が関係しています。

 

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

百済と高句麗、隋の3国は隣り合っていました。

中でも、建国したばかりの隋は勢いが強く、国力が充実していたため、百済と高句麗は隋を警戒しました。

隋と朝鮮半島は大陸が繋がっているので、陸路で攻めることが可能ですが、渤海湾を渡って、山東半島から遼東半島へ海路で攻めることも可能でした。

おゆう
おゆう

隋の侵攻に備えて、百済と高句麗は陳と国交を結んだんですね。

百済、高句麗と隋の関係

隋に使者を送り続けず、百済と高句麗は陳に使者を送り続けましたが、589年、隋は陳を平定して、中国を統一しました。

陳が滅亡した後、百済と隋、高句麗と隋の関係に変化はあったのでしょうか。

百済と隋の関係

隋が陳を平定した589年、隋の軍船が百済の領土に偶然漂着しました。

百済の威徳王はついに隋が攻めてきたのかと思いましたが、事情を知った威徳王は怒ることなく、隋に船を送り返し、使者を派遣して、隋が中国を統一したことを祝いました。
百済に感謝した隋の文帝は、毎年わざわざ入貢する必要はないと述べ、百済の朝貢を免除しました。

陳との外交を重視した百済は、隋から近々攻められるのではないかと緊張していましたが、威徳王の機転により、隋から攻められずに済みました。

高句麗と隋の関係

一方、高句麗は隋との関係を改善しようとせず、隋を警戒するだけで、中国を統一した隋に挨拶しませんでした。

それどころか、隋の統治下にある民族を圧迫してしまい、隋の文帝は高句麗の平原王に対して、非難の文書を送りました。
平原王は文帝の文書を見て、慌てて謝罪しようとしましたが、タイミングの悪いことに病を患い、そのまま崩御してしまいました。

平原王の子ども・嬰陽王が後を継いで即位すると、文帝は上開府儀同三司、遼東郡公に任命しました。

おゆう
おゆう

紹介したように、上開府儀同三司は従三品の官職。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

つまり、高句麗の地位は百済の地位と同じ従三品に引き下げられたんです。

隋は高句麗が正三品から従三品に引き下げられたことに意義を唱えるものだと思っていましたが、嬰陽王は意義を唱えるどころか、上開府儀同三司に任命されたことを感謝しました。

嬰陽王が謙虚な人物だと評価した文帝は、嬰陽王を高句麗王に封じました。

おゆう
おゆう

嬰陽王が折れたことによって、高句麗は隋と戦わずに済みましたが、もし、嬰陽王が折れなければ、高句麗と隋は戦争に突入していたかもしれませんね。

隋の文帝が高句麗遠征を行った理由

ここまで、百済と高句麗が隋をどのように捉えていたのか、百済と高句麗の視点で説明しましたが、では、隋は高句麗をどのように捉えていたのでしょうか。

高句麗が隋を警戒するように、実は、隋も高句麗を警戒していました。

おゆう
おゆう

隋が建国された当時、隋の周辺諸国で強力だったのが突厥と高句麗です。

突厥で内紛が起きると、隋は内紛を利用して、突厥を東西に分裂させて、突厥の国力を弱め、東突厥を従えました。

一方、高句麗では内紛も起きず、国力が高まるばかり。
相変わらず、高句麗から隋に使者が訪れることはありませんでした。

それどころか、598年、高句麗は遼西(遼寧省西部)に侵入。


高句麗の嬰陽王を謙虚な人物だと評価していた隋の文帝は怒り、30万人の軍隊を率いて高句麗に遠征しました。

残念ながら、海軍は暴風に遭い、陸軍は伝染病にかかり、撤退せざるを得ませんでしたが、隋の軍事力に驚いた嬰陽王は、文帝に慌てて謝罪しました。

以降、高句麗は隋に毎年朝貢し、隋と高句麗は戦争を免れました。

隋の煬帝が高句麗遠征を行った理由

604年に隋の文帝が崩御し、第2皇子・楊広が煬帝として即位しました。

607年8月、煬帝が東突厥の可汗・啓民可汗を訪ねた時、意外な事実を知ります。

おゆう
おゆう

なんと、啓民可汗のもとに、高句麗から使者が派遣されていたんです。

紹介したように、文帝の治世において、高句麗が隋の統治下にある民族を圧迫し、文帝は平原王に非難の文書を送りました。
隋の統治下にある民族には手を出さないように通達していたにも関わらず、高句麗は隋の臣属である東突厥に手を出していたんです。

煬帝は高句麗の嬰陽王に挨拶に訪れるように使者を送りましたが、嬰陽王は煬帝に叱責されることを恐れて、隋に出向きませんでした。

嬰陽王に無視され、プライドを傷つけられた煬帝は、608年、大運河の一つである永済渠を建設し、高句麗遠征のための準備を整え始めました。
また、609年には、西の高昌を従え、高句麗に遠征している間に、高昌から攻撃を受けないようにしました。

こうして、着々と準備を整えた煬帝は、612年に高句麗遠征に乗り出しました。

まとめ

隋の文帝と煬帝が高句麗遠征を行った理由を紹介しました。

隋が建国された後、隋と隣り合っていた百済と高句麗は、隋との対立に備えて、南朝に使者を派遣しました。
隋の軍船が百済に偶然漂着したことをきっかけに、隋と百済の関係は改善され、高句麗が孤立する形になり、隋と高句麗の関係は徐々に悪化。

隋を恐れた高句麗王が隋を訪問しなかったこと、高句麗が隋の支配下にある民族に手を出したことから、隋は高句麗に遠征することにしました。

隋の高句麗遠征は全て失敗に終わりますが、失敗した原因の一つとして、高句麗で伝染病が流行っていたことが挙げられます。

もし、高句麗で伝染病が流行っていなければ、隋は高句麗を滅ぼしていたかもしれませんね。

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