【隋】文帝と煬帝が行った高句麗遠征の経過をわかりやすく解説

中国を約300年ぶりに統一した隋。
ところが、隋はたった3代で滅びてしまいます。

おゆう
おゆう

3代で滅びる原因の一つが、高句麗遠征の失敗です。

高句麗遠征は初代皇帝・文帝(楊堅)、第2代皇帝・煬帝(楊広)の治世に行われました。

文帝と煬帝が行った高句麗遠征の経過を紹介します。

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文帝の高句麗遠征

598年、隋の東北にある遼東に高句麗が侵入したため、文帝は高句麗に遠征することにしました。

元帥長史(策士)に高熲を、元行軍元帥(総大将)に楊堅の第5皇子・楊諒を、楊諒の補佐に王世積を任命し、また、水軍総管に周羅候を任命しました。

楊諒と王世積は高句麗の領土内に足を踏み入れましたが、高句麗は応戦しません。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

というのも、高句麗で疫病が流行っていたからです。

高句麗で疫病が流行っているとは知らず、高句麗に入った楊諒と王世積は疫病にかかってしまいました。
また、周羅候が率いていた船は時化に遭い難破。

隋軍は高句麗から撤退し、楊堅の高句麗遠征は失敗に終わりました。

煬帝の高句麗遠征

煬帝は、高句麗遠征を3回行いました。

第一次高句麗遠征

1回目の高句麗遠征は、612年に行われました。
黄河と天津を結ぶ永済渠が完成し、物資を運ぶ体制が整ったからです。

隋の将軍・陳稜が琉球をあっさりと攻略できたため、煬帝は「高句麗も簡単に攻略できるだろう」と思っていました。

隋と高句麗は大陸続きですが、両国の間には、黄海という海があります。
そこで、大陸と黄海の2方向から、高句麗を攻めることにしました。


宇文述、于仲文、段方振を指揮官とし、24万人の兵を24部隊に分け、一日1部隊ずつ平壌に進軍させました。
武器や食糧を運ぶ輜重部隊には30万人を動員しました。
また、来護児を指揮官とし、黄海から進軍させました。

すけさん
すけさん

一見すると、隋の戦略はよく考えられているように感じられるかもしれません。

でも、隋国内では、煬帝が把握している以上の反乱が起きていました。

永済渠を使って運ぶ物資を狙った群盗まで現れていましたが、反乱が毎日のように勃発するため、煬帝への報告が追い付いていませんでした。

反乱を鎮圧するためには、兵を動員しなければいけません。
高句麗に出向くことができる兵は必然的に減少してしまいました。

すけさん
すけさん

24部隊が遼水(現在の遼河)をなんとか渡って、隋から高句麗にたどり着いたものの、遼東城をなかなか陥落できず、各部隊は責任を転嫁し合いました。

煬帝は「内輪揉めをしている場合ではない」と言って、宇文述に9部隊を率いて、平壌へ向かうように命令しました。

宇文述は輜重部隊を引き連れずに、鴨緑江までたどり着きましたが、輜重部隊が運ぶべき100日分の食糧を持って移動していたため、兵は疲れ果てていました。

鴨緑江から平壌まで、距離はまだまだあります。
食糧を持って移動し続けていては、平壌に到着する前に倒れてしまうかもしれません。

おゆう
おゆう

「戦いに武器は欠かせない」と思った兵は、宇文述にバレないように食糧を捨ててしまいました。

坊っちゃん
坊っちゃん

ご飯を捨てるなんて許せません。

一方、黄海から進軍した来護児は、平壌付近にある浿水(現在の大同江)に上陸。


高句麗の将軍・高建を撃破して、平壌の城壁を越え、城内に入り、高句麗軍がいないことを確認した来護児は、食糧や金品を略奪しました。

おゆう
おゆう

実は、高句麗軍は隠れて、来護児が隙を見せる瞬間を狙っていたんです。

略奪に一生懸命になっているところを、高句麗軍に攻撃され、来護児は慌てて船に戻りましたが、兵は激減してしまいました。

来護児が高句麗に反撃され、船に逃げ帰ったことを知った煬帝は、高句麗遠征に失敗したことを悟りました。

 

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

でも、煬帝と別れて、平壌に向かっている宇文述には、高句麗遠征が失敗に終わった情報は届きません。

食糧を捨て、空腹になった宇文述の部隊の士気は下がるばかりでした。

そこに、高句麗の将軍・乙支文徳が現れ、「高句麗王・高元が隋に降伏するつもりです」と言い出しました。

おゆう
おゆう

勝利の光が見えた宇文述は、気が緩んでしまいました。

退却する高句麗軍を見た宇文述は、高句麗軍を追いかけました。
でも、高句麗軍の退却するスピードは速く、宇文述は追いかけ続けることに。

長い追いかけっこが続き、宇文述の部隊はついに食糧がなくなってしまいました。

食糧が底を尽きた状態で、平壌城にたどり着いた時、宇文述は乙支文徳に騙されていたことに気付きました。

高句麗をこれ以上攻めるのは不可能だと判断した宇文述は引き返しましたが、隋に戻ることができた兵は1割弱でした。

第二次高句麗遠征

613年、2回目の高句麗遠征が行われました。

この年は全国的に干ばつが起きていて、多くの民が食糧に困り、張金称や高士達をはじめとする群盗が、国が保管している食糧を狙って反乱を起こしていました。

高句麗という外国ではなく、煬帝は隋国内に目を向けなければいけなかったのに、煬帝を諭すどころか、高句麗遠征に賛同した人物がいました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

第一回高句麗遠征で大敗した宇文述です。

大敗した責任として、宇文述は官職を剥奪されていました。

坊っちゃん
坊っちゃん

宇文述は第二回高句麗遠征で手柄を上げて、返り咲きたかったんですね。

宇文述の子ども・宇文化及も賛同しました。

宇文化及は煬帝の第1皇女・南陽公主と結婚していて、煬帝は義父にあたります。

高句麗遠征が決まると、兵ははしごの組み立て方や城壁への掛け方など、城を攻めるための武器をスムーズに使えるように訓練しました。

また、輜重部隊の監督官に、楊玄感を任命しました。

楊玄感は煬帝の側近・楊素の子どもです。

過去に遼東城に到着したことのある宇文述は、兵を失うことなく、遼東城に到着。

はしごを掛けたり、トンネルを掘ったりして、城内に入ろうとしましたが、高句麗軍にトンネルを掘っていることを気付かれてしまいました。
高句麗軍はトンネル内で炭を不完全燃焼させ、一酸化炭素を発生させました。

すけさん
すけさん

こうして、一ヶ月も膠着状態が続きますが、膠着状態が続くと困るのが食糧です。

手持ちの食糧が底を尽き、宇文述は輜重部隊が食糧を運んでくれるのを待っていました。でも、待てど暮らせど、輜重部隊はやってきません。

なんと、輜重部隊の指揮官である楊玄感が反乱を起こしていたんです。

厳密に言うと、反乱を起こしていたのではなく、食糧難に陥った民に、軍事用の食糧を分け与えていました。

楊玄感は将軍であることに誇りをもっていて、輜重部隊という武器や食糧を運ぶ部隊の指揮官に任命されたことに不満を抱いていたんです。

また、輜重部隊を取りまとめる兵部侍郞・斛斯政が高句麗に亡命していたことが判明しました。
楊玄感は輜重部隊の指揮官に任命された時から、斛斯政に相談して、反乱を計画していたんです。

おゆう
おゆう

楊玄感と斛斯政が起こした反乱の策士は李密。

李密は武川鎮軍閥の末裔で、頭が切れるため、煬帝は恐れていました。
当然、煬帝は反乱を鎮圧しようと考えましたが、高句麗遠征を行ったため、鎮圧に割ける兵は少なく、また、兵は疲弊していました。

そこで、洛陽にいる達奚善意や裴弘策に鎮圧を命じましたが、楊玄感が率いる軍は強く、武器と防具を捨てて、慌てて逃げてしまいました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

どうして、楊玄感はそんなに強かったの?

身の危険を冒してまで、民に食糧を分け与えた楊玄感は、民から厚い信頼を得ていました。

洛陽に逃げ帰った達奚善意と裴弘策は、洛陽留守・樊子蓋に処刑され、達奚善意、裴弘策と共に戦った兵は洛陽に帰らず、楊玄感に寝返りました。

寝返った兵の中には、韓擒虎や周羅睺など、楊堅、煬帝のもとで活躍した将軍の子どもが含まれていました。

楊玄感の反乱は順調に進んでいましたが、楊玄感は李密の進言を聞かず、洛陽を攻めることにしました。

洛陽には達奚善意と裴弘策を処刑した樊子蓋がいます。
また、洛陽の西にある長安には、長安留守兼刑部尚書・衛玄がいます。

楊玄感が洛陽を攻めようとしていることを知った衛玄は、楊玄感の父・楊素の墓を掘り返し、楊玄感を挑発しました。

おゆう
おゆう

挑発に乗り、冷静に判断できなくなった楊玄感は、衛玄を破ったものの、樊子蓋に敗北。

楊玄感が弘農城を通りがかった時、楊玄感に気付いた楊堅の甥・楊智積は城から楊玄感を罵って、楊玄感を挑発しました。
再び挑発に乗ってしまった楊玄感は城門を焼きましたが、火の勢いが強く、楊玄感は入城することができませんでした。

戸惑う楊玄感のもとへ、煬帝に派遣された宇文述が到着し、楊智積と宇文述は楊玄感を攻撃して、楊玄感は弟・楊積善と共に逃げました。
楊玄感が率いる軍は5万人にも及びましたが、樊子蓋に敗北した時、逃亡する者や離脱する者が多く、兵はほとんど残っていませんでした。

楊玄感は楊積善に自分を殺すように命じ、この世を去りました。

策士・李密は処刑されませんでした。

というのも、李密は隋軍に捕らえられ、都に護送されることになったものの、お酒を護送人にご馳走して、護送人が酔っぱらって寝た隙に逃げたんです。

楊玄感の首を取っていなくても、楊玄感を破り、反乱を鎮圧した楊智積と宇文述は、煬帝から褒美を与えられるものだと思って期待していました。

おゆう
おゆう

でも、煬帝から与えられたのは、反乱に加担した将軍や民を処刑する仕事でした。

楊玄感の反乱は鎮圧できたものの、反乱は次々と勃発。

そこで、江都(江蘇省揚州市)宮監・王世充は「反乱に加担していても、名乗り出れば処刑しない」と言いました。

加担した者は正直に名乗り出ましたが、もちろん、これは王世充の罠。
反乱に加担した者は一気に処刑され、煬帝は「これで反乱は起こらないだろう」と安心しました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

でも、反乱は一向に治まりません。

にもかかわらず、煬帝は高句麗を攻め落としたいと思い続けていました。

第三次高句麗遠征

最後の高句麗遠征が行われたのは614年。

隋軍はもちろん、高句麗軍も疲弊していたため、高句麗は隋に撤退してもらおうと、高句麗に亡命していた斛斯政を隋に引き渡しました。

すけさん
すけさん

楊玄感の反乱を支持した斛斯政は処刑を恐れて、高句麗に亡命していたんです。

斛斯政は来護児に引き渡され、隋に護送された後、煬帝に処刑されました。

煬帝は高句麗遠征を諦めましたが、高句麗に朝貢国となるように求めました。
でも、高句麗が朝貢国になることはありませんでした。

まとめ

文帝と煬帝が行った高句麗遠征の経過を紹介しました。

文帝の高句麗遠征は疫病の流行により失敗しました。
煬帝の高句麗遠征は、3回にわたって行われましたが、国内で反乱が起きたり、兵の疲労が重なったり、輜重部隊の指揮官である楊玄感が裏切ったりして、いずれも失敗しました。

もし、文帝と煬帝が高句麗遠征を行っていなければ、隋はもう少し長く存続したかもしれませんね。

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