磯田湖龍斎の「雛形若菜の初模様」を共同刊行した西村屋与八と蔦屋重三郎。
ところが、その後、「雛形若菜の初模様」は西村屋与八が単独刊行します。
西村屋与八と蔦屋重三郎がライバルだといわれる3つの理由を紹介します。
西村屋与八ってどんな人?
西村屋与八は蔦屋重三郎や鶴屋喜右衛門と同じ時代を生きた江戸時代の版元です。
・西村屋与八は宝暦年間(1751年から1764年)
・蔦屋重三郎は安永3年(1774年)
から版元として活動しています。
つまり、正確にいえば、西村屋与八は蔦屋重三郎の同業の先輩にあたります。
日本橋馬喰町2丁目に店を構え、浮世絵師・鳥居清満、鳥居清広などの細判役者絵を手がけました。
その後、鈴木春信や勝川春章、歌川の祖といわれる歌川豊春などの人気浮世絵師の錦絵を手がけます。
この頃の作品は版元印のないものがほとんど。
でも、西村屋与八の刊行している作品が多く含まれていると考えられています。
西村屋与八と蔦屋重三郎がライバルだといわれる3つの理由
安永6年(1777年)、蔦屋重三郎と共同で磯田湖龍斎の「雛形若菜の初模様」を刊行します。
後に、鳥居清長や勝川春山が手掛けた「雛形若菜の初模様」は大判100枚を超える揃物。
でも、蔦屋重三郎が関わっているのは初めの11作品だけ。
この頃、西村屋与八と蔦屋重三郎は既にライバル関係にあったといわれています。
蔦屋重三郎と鱗形屋孫兵衛の確執
万治年間(1658年から1661年)から日本橋大伝馬町に店を構えていた版元・鱗形屋孫兵衛。
先代・鱗形屋加兵衛は吉原を取材した遊女評判記を出版し、吉原細見を独占販売していました。
その後、鱗形屋孫兵衛は恋川春町の「金々先生栄花夢」を刊行し、業績もうなぎ上りに。
更に出版してしまいます。
手代はもちろん、鱗形屋孫兵衛自身も監督責任を問われて処罰されました。
鱗形屋孫兵衛が吉原細見を刊行できなくなったその年。
蔦屋重三郎は吉原細見を刊行し、その結果、鱗形屋孫兵衛は没落しました。
実は、2代目西村屋与八は鱗形屋孫兵衛の次男で婿養子だったんです。
西村屋与八にとって、蔦屋重三郎は生家を没落させた憎き相手です。
吉原細見を刊行したとはいえ、蔦屋重三郎はまだまだ駆け出しの身でした。
「雛形若菜の初模様」から蔦屋重三郎を切り離すことで、西村屋与八は復讐したかったのかもしれません。
美人画の覇権争い
鳥居清長の美人画を刊行していた西村屋与八。
西村屋与八に対抗するように、蔦屋重三郎は喜多川歌麿とタッグを組み、美人画を世に送り出します。
すると、西村屋与八は歌川豊国や鳥文斎栄之を起用して美人画を刊行。
蔦屋重三郎と西村屋与八は美人画を巡って度々衝突しました。
商売方法の違い
同じ版元であっても、蔦屋重三郎と西村屋与八の商売方法は全く異なります。
蔦屋重三郎は、
・これから起用する作者、絵師
・お世話になっている作者、絵師
を吉原に誘い、食事をしたり、お酒を飲んだりして、関係の構築に努めました。
一方、西村屋与八は作者や絵師をもてなすことはありませんでした。
西村屋与八の商売方法について、曲亭馬琴は「近世物之本江戸作者部類」で次のように記しています。
その画その作の冊子を刊行して、画工・作者の名を世に高くすれば、そが為に引き札をするに似たり。
かゝれば作者まれ画工まれ、印行くを乞ふべきもの也。
吾は決して求めず。
西村屋与八は、
・作者や絵師の作品が世に出るのは、版元のおかげ
・版元である私が頭を下げてお願いすることはない
と言っていたというんです。
蔦屋重三郎に比べて、高飛車な態度をとっていた西村屋与八。
これは、西村屋与八がやり手だったからこそできたことですね。
まとめ:二人がライバルになるのは必然的!
西村屋与八と蔦屋重三郎がライバルだといわれる3つの理由を紹介しました。
① 蔦屋重三郎と鱗形屋孫兵衛の確執
② 美人画の覇権争い
③ 商売方法の違い
からライバルになった西村屋与八と蔦屋重三郎。
西村屋与八の生家を没落させた蔦屋重三郎。
この時から、二人がライバルになるのは必然的だったのかもしれませんね。
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