平賀源内、大田南畝の親友・平秩東作が狂歌界から退いた理由と「東遊記」

・本草学者であり、殖産事業家でもある平賀源内
・御家人であり、狂歌師でもある大田南畝
と交流し、様々な顔を持つことになった平秩東作。

平秩東作生涯
② 平秩東作が狂歌界から退いた理由
③ 平秩東作が書いた蝦夷地の調査記録「東遊記
を紹介します。

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平賀源内、大田南畝の親友・平秩東作ってどんな人?

平秩東作は享保11年(1726年)生まれ。
尾州藩(尾張藩)の元藩士・立松太郎右衛門道佐のもとに誕生しました。

平秩東作の本名は立松懐之(かねゆき)といいます。

父の跡を継いで煙草商になる

立松太郎右衛門道佐は「稲毛屋金右衛門」という屋号で、煙草店を営んでいました。

平秩東作は10歳の頃から漢学や和学を学んでいましたが、14歳の時に父が死去。
父の跡を継いで、煙草商になりました。

狂歌師の才能を開花させる

平秩東作は煙草店を営みながら、
・大田南畝や平賀源内と親交を持つ
・伊藤蘭嵎(らんぐう)を師として儒学を学ぶ
などし、学問を続けます。

明和6年(1769年)、唐衣橘洲主催の狂歌会に参加。

唐衣橘洲は大田南畝、朱楽菅江と共に狂歌三大家と称された人物です。

大田南畝とはもちろん、平秩東作は大田南畝の師・内山賀邸とも仲良くしていました。
平秩東作は自然に狂歌師としての才能を開花させました。

平賀源内の遺体を引き取る

安永8年(1779年)、平賀源内が大工を斬って投獄されてしまいます。
投獄から一ヶ月も経たないうちに、平賀源内は52歳で死去。

幕府の許可が下りなかったため、平賀源内の葬儀は墓碑、遺体のないものとなります。

幕府に目を付けられる覚悟で、平秩東作は平賀源内の遺体を引き取りました。

「百鬼夜狂」を刊行する

天明3年(1783年)、版元・蔦屋重三郎のもとで「狂歌師細見」を刊行。

「狂歌師細見」は吉原のガイドブック「吉原細見」のパロディです。

天明5年(1785年)には、自身が中心となって狂歌集「百鬼夜狂」を刊行しました。

その4年後の寛政元年(1789年)、病を患った平秩東作は63歳で亡くなりました。

平秩東作が狂歌界から退いた理由

紹介したように、平秩東作は父の跡を継いで煙草商になりました。
また、唐衣橘洲主催の狂歌会に参加し、狂歌師としての才能を開花させました。

町人
町人

でも、平秩東作には「事業家」というもう一つの顔がありました。

安永2年(1773年)から、伊豆にある天城山で炭焼き事業を開始。
安永4年(1775年)には、材木屋の多い本所相生町に店を構えて材木商になります。

この時、平秩東作は煙草店を14歳の長男・八右衛門に譲っています。

安永7年(1778年)には、薪や炭を扱う店の多い鉄砲州船松町に移りました。

何故、一介の煙草商が炭焼き事業や材木商に乗り出したのでしょうか。

それは平賀源内、勘定組頭・土山宗次郎、老中・田沼意次のバックアップがあったからです。

平賀源内のバックアップ

平秩東作が天城山を訪れる数年前。

本草学を学んでいた平賀源内は、

商人
幕府

芒硝(硫酸ナトリウム)を探すように!

と、幕府から特命を受けていました。

平賀源内は芒硝を探し求めて、天城山にたどり着きます。

また、平秩東作が材木商になる数年前。
平賀源内は秩父鉱山の開発に関わっており、炭焼き事業を始めていました。

平秩東作が炭焼き事業、材木商を始めたのは、平賀源内をサポートするためだったと考えられます。

勘定組頭・土山宗次郎のバックアップ

新しい事業を始めるには、なんといっても資金が必要です。
平秩東作は土山宗次郎から資金援助を受けました。

老中・田沼意次のバックアップ

田沼意次は平賀源内の事業を応援していました。
平賀源内をサポートすることで、平秩東作もまた田沼意次から(間接的に)応援されていました。

平賀源内、土山宗次郎、田沼意次のバックアップを受けて、事業に乗り出した平秩東作。

ところが、平賀源内が安永8年(1779年)に亡くなります。

土山宗次郎は天明6年(1786年)に横領罪で失脚。
平秩東作は追われる土山宗次郎を所沢の山口観音(金乗院)に匿い、幕府から咎められます。

田沼意次も同年に老中を辞任、蟄居を命じられました。

町人
町人

バックアップを受けられなくなったどころか…
一転して幕府から目を付けられる立場となった平秩東作。

狂歌界から身を退き、目立たないよう静かな余生を送りました。

平秩東作が書いた蝦夷地の調査記録「東遊記」

狂歌師であり、事業家でもあった平秩東作。
平秩東作は勘定奉行・松本秀持から蝦夷地の調査を命じられます。

平秩東作はまず三重に入り、蝦夷地まで向かう堅牢な船を探しました。
船を入手した後、平秩東作は蝦夷地に渡ります。

蝦夷地の産物やアイヌの人々の風俗、松前の庶民の暮らしぶりなどを詳しく記録しました。
そして、天明3年(1783年)から翌年にかけて、その記録を「東遊記」として綴りました。

極寒の蝦夷地から平秩東作は無事帰還しますが、
・土山宗次郎が処罰されたこと
・災害が起きて、以降費用を捻出できなくなったこと
・田沼意次の失脚に伴い、松本秀持も失脚したこと
により、蝦夷地の調査は中止になりました。

まとめ:平秩東作は狂歌師、事業家、蝦夷地の調査員だった!

平秩東作生涯
② 平秩東作が狂歌界から退いた理由
③ 平秩東作が書いた蝦夷地の調査記録「東遊記
を紹介しました。

平賀源内と交流し、自身も炭焼き事業や材木商に乗り出した平秩東作。
「東遊記」は当時の蝦夷地を知ることのできる貴重な資料として高く評価されています。
機械があれば、是非読んでみてくださいね。

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