江戸幕府第10代将軍・徳川家治の唯一となる跡継ぎを産んだ知保の方。
ところが、その唯一の跡継ぎである徳川家基は18歳で急死してしまいます。
徳川家治の側室・知保の方(蓮光院)と幻の将軍・徳川家基の生涯を紹介します。
徳川家治の側室・知保の方(蓮光院)
知保の方は元文 2年(1737年)生まれ。
津田宇衛門右信成のもとに三女として誕生しました。
養父は関東群代の伊奈忠宥です。
徳川家重に仕える
寛延2年(1749年)、12歳で江戸城の大奥に入ります。
この時は、御次として江戸幕府第9代将軍・徳川家重に仕えました。
寛延4年(1751年)には、御中臈に昇格します。
大奥の女中の中から、家柄や容姿のいい女性が御中臈に推薦されます。

知保の方は御三卿である清水重好の生母・お遊の方の親族。
知保の方が御中臈に推薦されるのは全くおかしくありません。
また、将軍は御中臈の中から、側室を選ぶのが一般的。
つまり、知保の方は側室の最有力候補だったんですね。
徳川家治の御中臈になる
宝暦11年(1761年)、知保の方の仕えていた徳川家重が49歳で亡くなります。
この時、
① 第10代将軍・徳川家治の乳母である大奥長老年寄の松島の局
② 老中・田沼意次
が協力して、知保の方を徳川家治の側室に推薦。
知保の方は江戸城本丸の大奥へ移り、徳川家治の御中臈となりました。
徳川家基を出産する
宝暦12年(1762年)10月、徳川家治にとって最初の子となる徳川家基を出産。
知保の方は徳川家基を出産した功績を称えられ、老女上座(御年寄)の格式を与えられます。
側室が産んだ子とはいえ、徳川家基は立派な跡継ぎ。
徳川家基は徳川家治の御台所(正室)五十宮倫子に預けられました。
明和6年(1769年)、徳川家基が西の丸御殿に移ると、知保の方も西の丸大奥に移ります。

二人は同じ西の丸御殿で暮らしました。
でも、知保の方と徳川家基がどれだけ顔を合わせていたかは分かりません。
55歳で亡くなる
明和8年(1771年)に、五十宮倫子が34歳の若さで亡くなります。
すると、知保の方は御台所と同等の扱いを受けるようになりました。

この頃から、知保の方と徳川家基は親子らしさを取り戻したかもしれません。
ところが、安永8年(1779年)、徳川家基が18歳の若さで急死。
天明6年(1786年)に徳川家治が49歳で亡くなると、落飾して「蓮光院」と名乗り、二の丸へ移りました。
寛政3年(1791年)3月、知保の方は55歳で亡くなりました。
知保の方(蓮光院)が産んだ幻の将軍・徳川家基
徳川家基は宝暦12年(1762年)10月生まれ。
江戸幕府第10代将軍・徳川家治と側室・知保の方の間に、長男として誕生しました。
徳川家治の御台所・五十宮倫子に育てられた家基は幼い頃から聡明で文武両道。
成長するにつれて、政治にも関心を持ち、政務に積極的に参加しました。

時には、老中・田沼意次の政策を批判することもありました。
安永8年(1779年)、徳川家基は鷹狩りに行きます。
そして、鷹狩りの帰りに、品川の東海寺に立ち寄ると突然身体に異変が。
その3日後、わずか18歳でこの世を去りました。
徳川家基は通字である「家」を授けられながらも、将軍職に就けませんでした。
でも、貞次郎は生まれてからわずか3ヶ月で亡くなってしまいます。
徳川家治にはもう跡継ぎがいません。
徳川家基を失った徳川家治は嘆き悲しみ、食事も喉を通らなくなるほどでした。
・対立していた田沼意次による毒殺
・徳川家斉に将軍職を継がせようとした一橋家・徳川治済による毒殺
など、多くの暗殺説があります。
徳川家基に代わって、第11代将軍となったのは徳川家斉。
徳川家斉は徳川家基の命日には欠かさず、墓参りを行きました。
まとめ:通字を授けられながらも将軍職に就けなかった家基
徳川家治の側室・知保の方(蓮光院)と幻の将軍・徳川家基の生涯を紹介しました。
側室・知保の方のもとに生まれ、御台所・五十宮倫子に育てられた徳川家基。
徳川家基の死因は判っていませんが、
・対立していた田沼意次による毒殺
・徳川家斉に将軍職を継がせようとした一橋家・徳川治済による毒殺
などの暗殺説から、徳川家基が優秀な跡継ぎだったことがよく分かりますね。
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