今川義元の首を取り返した鳴海城主・岡部元信は武田家臣として高天神城で討死

桶狭間の戦いで織田信長に討たれた今川義元。
織田信長から今川義元の首を取り返したのは、今川義元の長男・今川氏真ではなく、今川家重臣・岡部元信でした。

鳴海城の開城と引き換えに今川義元を取り返し、最期は武田家臣として高天神城で討死した岡部元信の生涯を紹介します。

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鳴海城主となる

岡部元信は今川氏輝、今川義元に仕えた岡部親綱の長男として誕生しました。

今川氏輝は今川義元の父・今川氏親の長男です。

今川義元には今川氏輝、今川彦五郎の二人の同母兄がいましたが、今川氏輝と今川彦五郎が天文5年(1536年)4月7日に急死。
今川義元と今川氏親が側室との間に授かった異母兄・玄広恵探(今川良真)の間に家督争い(花倉の乱)が起こりました。

この時、今川義元が家督を相続できるよう取り計らったのが岡部親綱。
以降、岡部親綱は今川家の重臣として活躍しました。

岡部元信自身は天文17年(1548年)に勃発した第二次小豆坂の戦い、天文18年(1549年)に勃発した安祥城の戦いで武功をあげ、頭角を現しました。

おゆう
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天文21年(1552年)、織田信長の父・織田信秀が亡くなると、織田家臣・山口教継は今川家に寝返り、自身が城主を務めていた鳴海城を手土産にしました。

今川義元は山口教継に鳴海城主を引き続き任せましたが、鳴海城主は尾張と三河の国境にある重要拠点。

「主君(織田信長)を裏切るような家臣に鳴海城主を任せてはいけない」と思い直し、今川義元から厚く信頼されていた岡部元信は鳴海城主に任命されました。

織田信長から今川義元の首を取り返す

永禄3年(1560年)に勃発した桶狭間の戦いで、今川義元は織田信長に討たれました。

岡部元信が城主を務めていた鳴海城は、戦いの最前線。
次々に攻め入る織田軍を撃退し、鳴海城が簡単に落ちる城ではないことを織田信長に見せつけました。

そして、岡部元信は鳴海城の開城と引き換えに今川義元の首を渡すよう申し出ました。

岡部元信の忠誠心に感動した織田信長は、今川義元の首を棺に入れて岡部元信に届けました。
棺を受け取ると、岡部元信は輿に棺を乗せて、鳴海城を立ち去りました。

岡部元信は今川義元の首を取り返しましたが、桶狭間の戦いでは武功をあげていません。

駿府に帰る途中、岡部元信は徳川家康の伯父・水野信近が城主を務める刈谷城を攻め、水野信近を討ち、また、城に火を点けて焼き払いました。

岡部元信は今川義元の首が入った棺を今川氏真に渡し、今川氏真に仕えることを誓いました。

武田家臣となる

今川義元の跡を継いだ今川氏真に求心力はなく、今川家臣は次々と離反。

甲斐国の武田信玄は今川家の混乱に乗じて領地を奪おうと、駿河に攻め入りました。
更に、武田信玄と手を結んだ徳川家康が今川氏真の逃げ込んだ掛川城を攻め、今川氏真は妻・早川殿の父である相模国の北条氏康を頼り、戸倉城に身を寄せることにしました。

おゆう
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今川氏真が戸倉城に身を寄せた時、戦国大名としての今川家は滅亡しました。

主君、主家を失った岡部元信は今川氏真を戸倉城に送り届けた後、武田家に降伏し、武田信玄に仕えることを選択しました。

第二次高天神城の戦いで討死する

岡部元信の他に、朝比奈信置や岡部正綱が今川家から武田家に降伏しましたが、岡部元信は武田信玄から最も多く兵を与えられました。
また、武田信玄が亡くなり、武田勝頼が跡を継ぐと、岡部元信はかつての主君・今川義元の屋敷に住むことを許され、他の武田家臣より優遇されました。

お嬢ちゃん
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これには、今川家に仕えていた頃から、岡部元信が武田家と通じていたという背景があります。

天正2年(1574年)、武田勝頼は徳川家康の支配下にある高天神城を陥落しましたが、天正3年(1575年)に勃発した長篠の戦いでは、織田信長・徳川家康連合軍に敗北。
勢いに乗った徳川家康は武田勝頼の支配下にある二俣城や諏訪原城などを次々と陥落させます。

岡部元信も徳川軍の攻撃を受けましたが、城を守り抜き、徳川軍を退却させました。

おゆう
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武功をあげた岡部元信は高天神城の城主に任命されました。

天正9年(1581年)、武田勝頼から高天神城を取り戻したかった徳川家康は兵糧攻めをします。

この頃、武田勝頼は相模国の北条氏政と対立していて、高天神城に援軍を送る余裕がありませんでした。
援軍を見込めないと判断した岡部元信は、城内に残っていたわずかな食糧で宴会を開き、最も手薄だった徳川家臣・石川康通率いる部隊に突撃。

お嬢ちゃん
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岡部元信が城から出たと知った徳川家臣・大久保忠世や大須賀康高は急いで駆けつけました。

城から真っ先に出てきた兵を討つよう、大久保忠世の弟・大久保忠教は家臣・本多主水に命じて、自身は岡部元信を討ちに向かいました。
大久保忠教から命じられたとおり、本多主水は城から真っ先に出てきた兵を討ちました。

おゆう
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城から真っ先に出てきた兵こそ、実は、岡部元信。
大手柄を逃した大久保忠教は本多主水に出した命令を後悔しました。

生まれ年が判っていないため、享年は定かではありませんが、岡部元信は70歳前後で討死したといわれています。

まとめ

鳴海城の開城と引き換えに今川義元を取り返し、最期は武田家臣として高天神城で討死した岡部元信の生涯を紹介しました。

今川家で今川義元、今川氏真に仕えた岡部元信は、武田家で武田信玄、武田勝頼に仕え、忠臣として活躍しました。
もし、忠義の厚い岡部元信が徳川家康に仕えていたら、徳川家はどうなっていたのでしょうか。

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