慶長遣欧使節の副使としてヨーロッパに渡った支倉常長。
7年の時を経て帰国した支倉常長を待ち受けていたのは禁教令でした。
支倉常長が迎えた最期を紹介します。
伊達政宗に謁見を希望する
支倉常長は元和6年(1620年)にスペインからメキシコ経由で帰国しました。
伊達政宗の命令を受けて、慶長遣欧使節の副使として、ヨーロッパに出向いた支倉常長。
支倉常長が慶長遣欧使節の副使に選ばれた理由は、父と養父(伯父)の罪に連坐して行われる予定だった斬首刑の代わり。
斬首刑を免除された支倉常長は伊達政宗に書状を送り、状況を逐一報告していました。
でも、帰国したら、伊達政宗に直接会って、
・書状よりも詳しい状況
・任務を100%果たせなかったこと
を伝えなければいけません。
支倉常長は伊達政宗に謁見することを希望しました。
謁見の条件に棄教を提示される
ところが、伊達政宗が支倉常長を引見したのは、支倉常長が仙台に到着してから10日後のことでした。
支倉常長はスペインで洗礼を受け、キリシタンとなっていました。
当初、江戸幕府はキリスト教に対して、特に政策をとっていませんでした。
ただ、
① カトリック教徒の活動拡大
② プロテスタント国からの忠告
③ 神仏勢力の反対
を受けて、次第に態度を硬化。
ついに、慶長17年(1612年)3月、幕府は禁教令を出しました。
でも、諸大名は日本全国が対象になっていると捉え、キリシタンは厳しい弾圧を受けていました。
伊達政宗がキリシタンである支倉常長と会えば、二人は幕府から処罰される可能性があります。
そこで、伊達政宗は引見の条件として、支倉常長の棄教を提示しました。
棄教したかもしれない
支倉常長と伊達政宗が面会した時、支倉常長が棄教していたかどうかは判りません。
ただ、
① 伊達家臣が支倉常長の棄教を引見の絶対条件とした
② 支倉常長の甥が棄教を勧めた
ことから、周囲は「支倉常長は棄教した」と認識していた可能性が高いと考えられています。
支倉常長は帰国して2年が経った元和8年(1622年)8月に亡くなりました。
支倉常長の墓は、
① 光明寺(仙台市青葉区)
② 西光寺(宮城県黒川郡大郷町)
③ 円福寺(宮城県柴田郡川崎町)
にあります。
寺に納骨していることから考えても、支倉常長は棄教していたのかもしれません。
信仰を維持したかもしれない
その一方で、帰国後も、支倉常長はキリシタンとして信仰を維持していたとも考えられています。
支倉常長の7年間という長い渡航、不慣れな土地での滞在を支えたのは、キリスト教の信仰でした。
① 支倉常長がキリシタンだったこと
② 神父が告訴、白状したこと
により、支倉常長の嫡男・常頼はキリシタンの嫌疑を受けます。
ただ、常頼は臨済宗の光明寺にお布施を納めていたため、
キリシタンであれば、お寺にお布施を納めないだろう。
と判断され、取り調べを免れました。
次男・常道も嫌疑を受けましたが、出奔して行方をくらましました。
ただ、家人である与五右衛門と妻・きり、太郎左衛門と妻せつは嫌疑を免れず、処刑されてしまいました。
支倉常長のキリスト教信仰は決して表面的なものではなく、子どもや家人に大きな影響を与えるほどのものだったのではないでしょうか。
まとめ:支倉常長の7年間を支えたのはキリスト教!
支倉常長が迎えた最期を紹介しました。
伊達政宗が謁見の条件として棄教を出したことから、支倉常長は棄教した可能性が高いといわれています。
ただ、支倉常長の信仰心が子どもや家人に影響を与えていたことから、信仰を維持していた可能性も捨てきれません。
いずれにしても、キリスト教が支倉常長の7年間を支えたことに変わりはないのではないでしょうか。
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