軍師・楠木正成の血を継ぐ正行・正時兄弟。
北畠顕家を滅ぼした足利尊氏の側近・高師直。
楠木正行・正時と高師直の四條畷の戦いの経緯と経過、結果を紹介します。
四條畷の戦いの経緯
天王寺・住吉の戦いで勝利し、敵を助けた楠木正行。
余裕をみせる楠木正行を恐れた足利尊氏は、ついに高師直・師泰兄弟を派遣します。
高師直・師泰兄弟が出陣する
藤井寺・教興寺の戦い、住吉・天王寺の戦いで、楠木正行に敗北した細川顕氏。
細川顕氏はその責任を問われて、河内国・和泉国の守護を罷免されます。
高師直は1万人を超える兵を用意し、弟・高師泰にも軍を編成させます。
貞和3年(1347年)12月14日に高師泰軍が、25日に高師直軍が京を出発。
淀にとどまって、年を越しました。
楠木正行が後村上天皇に最後の挨拶をする
高師直・師泰兄弟は北畠顕家を自害に追い込んだ強敵。
死を覚悟した楠木正行は弟・正時と共に、南朝の拠点・吉野に向かい、後村上天皇に最後の挨拶をしました。
後村上天皇から、
決して無理はしないように。
と言われたものの、楠木正行はこの戦に全てを捧げるつもりでした。
楠木正行は、
① 一族の名前を過去帳に記す
② 如意輪寺の扉に、辞世の句を刻む
などし、吉野を出発しました。
四條畷の戦いの経過
四條畷の戦いは讃良郡野崎及び北四条でくり広げられました。
高師直が飯盛山を占拠する
貞和4年(1348年)1月2日、高師直軍は河内国に入り、讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)に陣を構えました。
高師直が野崎に陣を構えたのは、東にある飯盛山を占拠するため。
東高野街道を挟んで、飯盛山の西には深野池があります。
飯盛山を占拠すれば、戦で優位に立つことができたんです。
楠木正行が到着する前に、高師直軍は飯盛山の占拠に成功しました。
楠木正行が野崎に向かう
楠木正行が吉野を出発した時、高師直が野崎に、高師泰が堺浦に陣を構えていました。
野崎と堺浦の距離は約40キロメートル。
楠木正行は一人ずつ倒していくしかありません。
楠木正行が戦相手に選んだのは、野崎に陣を構える高師直でした。
飯盛山の戦いに敗北し、楠木正行の退路が断たれる
ただ、紹介したように、高師直の陣の東にある飯盛山は、高師直軍が既に占拠しています。
西には深野池があり、楠木正行は北進して、正面から戦いを挑むしかありませんでした。
北進している間に幕府軍から攻撃されないように、楠木正行は飯盛山に兵を送ってけん制しました。
ところが、飯盛山の戦いは楠木正行の思うように進まず、幕府軍が優勢に。
楠木正行は退路を断たれ、軍は縦に伸び切ってしまいました。
四條畷の戦いの結果
退路を断たれた楠木正行はひたすら北進。
ついに、四條畷の高師直軍の本陣にたどり着きました。
この時、楠木正行は高師直を名乗る者を討ち取ります。
楠木正行は高師直を討ち取ったと喜びました。
高師直は楠木正行から逃れようと、更に北に向かっていたんです。
高師直を取り逃がした楠木正行はあえて撤退してみせ、高師直をおびき出すことにしました。
ところが、高師直はその手に乗らず、弓矢部隊を派遣して、楠木正行軍にたくさんの矢を放ちました。
まるで雨のように降る矢。
貞和4年(1348年)1月5日、負傷した楠木正行は、
敵の手にかかって死にたくない…
と言って、楠木正時と刺し違えて自害しました。
つまり、戦の舞台は北四条だったといわれています。
ただ、「太平記」では、戦の舞台が「四條畷(四條縄手)」と記載されているため、四條畷の戦いと呼ばれています。
四條畷の戦いに勝利した高師直は吉野に向かい、吉野行宮を焼き払いました。
また、高師泰は古市に進軍し、南朝残党を掃討し、楠木正行の館を焼き払いました。
後村上天皇は吉野から賀名生に逃げましたが、楠木正行を失ったことにより、南朝は壊滅状態に陥りました。
まとめ:高師直もなかなかの策士だった!
楠木正行・正時と高師直の四條畷の戦いの経緯と経過、結果を紹介しました。
四條畷を舞台に死闘をくり広げた楠木正行・正時兄弟。
楠木正行が敗北した原因は、
① 圧倒的な兵力差
② 高師直の作戦の成功
の2つです。
楠木正成の血を継いでいたとはいえ、軍師としては、高師直が一枚上手だったのかもしれませんね。
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