源行家は疫病神?死因と最期は?頼朝、義経、木曽義仲との関係を家系図で紹介

関わった人たちを死に追いやりながらも、自身は生き残る強運の持ち主・源行家。

源行家疫病神と呼ばれる理由、死因最期
頼朝義経木曽義仲との関係
を紹介します。

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源行家は疫病神?

「源氏の疫病神」、「源氏の死神」と呼ばれる源行家。

源行家は誰をどのように死に追いやったのでしょうか。

源頼政と以仁王を死に追いやる

まず、源行家が死に追いやったのは源頼政と以仁王です。

源頼政とは?

源頼政は源満仲の長男・源頼光を祖とする摂津源氏の出身です。

清和源氏は、
① 摂津源氏
② 源満仲の三男・源頼信を祖とする河内源氏
に分かれていました。

摂津源氏と河内源氏は元をたどれば同じ清和源氏。
でも、嫡流が摂津源氏、傍流が河内源氏と格付けされていたため、摂津源氏と河内源氏は対立していました。

平治元年(1160年)に勃発した平治の乱では、源頼政は河内源氏出身の源義朝と離れて平清盛に味方しました。

戦の結果、平清盛と源頼政が勝利。
源義朝は敗死し、源頼政は武門源氏の中心人物となりました。

ただ、源頼政は当時77歳。
平清盛の推薦を受けて従三位に叙せられた翌年には、長男・源仲綱に家督を譲って隠居しました。

以仁王とは?

以仁王は後白河法皇の第三皇子。
異母兄・二条天皇が即位したため、将来出家することを見据えて仏門に入りました。

ところが、師匠・天台座主最雲が亡くなり、出家の機会を失ってしまいます。

出家できなかった以仁王は永万元年(1165年)に元服しました。
そのため、以仁王はれっきとした皇位継承資格者でした。

ところが、10歳も年下である異母弟・高倉が即位し、皇子・安徳親王、守貞親王が誕生します。

安徳親王は大きな権力を握る平清盛の外孫。
皇位継承資格者であっても、以仁王が即位するチャンスはほぼありませんでした。

治承3年(1179年)、平清盛が後白河法皇を幽閉。

この時、以仁王は師匠・最雲から譲られていた所領を平清盛に没収されてしまいました。

平清盛に恨みを抱いていた以仁王。
平清盛を倒せば、所領を取り戻すことはもちろん、皇位を継承することもできるかもしれません。

そこで、以仁王は源頼政に声をかけます。

源仲綱は平清盛の三男・平宗盛に馬を奪われていました。
おまけに、平宗盛は馬に「仲綱」と名前を与え、源仲綱を侮辱。

隠居したとはいえ、源頼政は「息子が馬鹿にされている」と平氏を恨んでいたんです。

利害の一致した以仁王と源頼政は平清盛に対してクーデターを起こすにしました。

源行家が令旨配りに失敗する

以仁王は戦の準備に取り掛かります。
治承4年(1180年)、兵を集めるべく、以仁王は源行家に令旨を伝える役割を任せました。

ところが、以仁王がクーデターを企てているという情報が平清盛に漏れてしまいます。
当時、平清盛は熊野を度々訪れていましたが、源行家は熊野にも令旨を伝えてしまったんです。

以仁王を守って、源頼政が切腹する

クーデターは失敗に終わり、以仁王は土佐国への配流が決定します。

源頼政は以仁王を救おうと、源仲綱と協力して以仁王を救い出しました。

この時、以仁王は女装して脱出したといわれています。

ところが、身体に疲れがたまっていた以仁王は何度も落馬。
源頼政と以仁王は平等院で休息を取ることにしました。

追っ手がやって来たため、源頼政は自身の身体を張って、以仁王を逃そうとします。
やがて、源頼政の兵は数が減り、勝ち目がないと判断した源頼政は源仲綱と共に切腹しました。

以仁王は討ち取られる

平等院から脱出できたものの、以仁王は光明山(京都府木津川市)の鳥居の前で藤原景高に追いつかれます。
29歳の若さで討ち取られてしまいました。

義円を死に追いやる

以仁王から令旨を伝える役割を任されていた源行家。
平清盛から「源行家は以仁王、源頼政の味方をしていた」と思われていました。

そこで、源行家は三河国や美濃国で独自勢力を築きます。
そして、源行家は源頼朝の弟・義円に声をかけ、自勢力に組み込みました。

義円は園城寺(滋賀県大津市)にて既に出家した身。
後白河天皇の皇子・円恵法親王の坊官を務めていました。

治承5年(1181年)、源行家が尾張国で兵士を迎撃するべく挙兵すると、義円も参戦。
墨俣川の戦いで、平清盛の五男・平重衡と戦います。

源行家軍5000人に対して、平重衡軍はなんと30000人。
戦が始まる前から勝敗はついているようなものでしたが、源行家は戦を強行。

結果、義円は平家臣・高橋盛綱に討ち取られ、27歳の若さでこの世を去りました。

木曽義仲を死に追いやる

墨俣川の戦いでなんとか生き延びた源行家は相模国に入り、源頼朝に会います。
源頼朝に受け入れられた源行家は、平氏打倒を掲げて全国に決起を促しました。

そして、決起を促したことに対する褒美が欲しいと、源行家は源頼朝に所領を求めます。
ところが、源頼朝は源行家の申し出を拒否し、二人は不仲になりました。

そこで、源行家は木曽義仲に声をかけます。

倶利伽羅峠の戦いで、10万を超える平維盛軍を破った木曽義仲。
後白河法皇から期待された木曽義仲と源行家、源頼朝は平氏追討を命じられました。

その後開かれた公卿議定において、
① 源頼朝
② 木曽義仲
③ 源行家
の順で手柄をあげたと裁定。

源行家は木曽義仲が自分より高く評価されたことに不満を抱きます。

弁の立つ源行家は後白河法皇に木曽義仲の悪口を吹き込みました。
また、木曽義仲が水島の戦いで平氏に敗北すると、「木曽義仲は北陸に逃亡しようとしている」と噂を広めます。

木曽義仲を貶めることに成功した源行家は平氏追討を口実に京都を離れました。

寿永2年(1183年)11月、源行家は播磨国室山に陣を構える平知盛・重衡軍20000人を攻撃。
平氏に敗北した源行家は高砂を経て、海を渡って和泉国に逃げます。

そして、河内国の長野城に立てこもりました。

源行家、朝廷、平氏の脅威にさらされていた木曽義仲は長野城を攻撃します。
源行家は紀伊国名草へ逃亡しました。

この後、源頼朝が木曽義仲の追討令を出し、弟・源義経・範頼が木曽義仲を討ちます。
源行家は対立していた源頼朝に救われる形となりました。

源義経を見捨てる

木曽義仲が討たれると、源行家は和泉国、河内国で独自勢力を築き、源義経に接近します。
その活躍ぶりから源義経は源頼朝と対立していたため、源義経と手を組んで源頼朝を倒そうと考えたんです。

元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡すると、

源頼朝
源頼朝

源行家と源義経がクーデターを起こすんじゃないか…

と、源頼朝は警戒し始めます。

危険を察知した源行家と源義経は後白河法皇に源頼朝の追討の院宣を要求します。

院宣を要求した5日後、源頼朝の家臣・土佐坊昌俊が源義経を襲撃。
源義経は早くも源頼朝に追い込まれてしまいます。

源行家は「源義経と手を組んでもメリットはない」と判断。
源義経を見捨てて逃亡しました。

源行家の死因と最期は?

源頼朝に追い込まれた源行家は和泉国の在庁官人・日向権守清実邸に潜伏しました。

文治2年(1186年)5月、和泉国の民が源行家の居場所を鎌倉幕府に密告。
北条時政の甥・北条時定に捕らえられ、山城国赤井河原で処刑され、40代でこの世を去りました。

源行家が討たれてから3年後の文治5年(1184年)、源義経は31歳の若さで自害しました。

頼朝、義経、木曽義仲との関係を家系図で紹介

源行家にとって、
① 兄・源義朝の三男である頼朝
② 源頼朝の異母弟である義経
③ 兄・源義賢の次男である木曽義仲(源義仲)
は甥にあたります。

源行家は義円を含む甥を不幸に次々と巻き込んだんですね。

まとめ:甥を死に追いやり、甥に疎まれた叔父さん

源行家疫病神と呼ばれる理由、死因最期
頼朝義経木曽義仲との関係
を紹介しました。

甥・木曽義仲、源義経を死に追いやり、甥・源頼朝から疎まれた源行家。

弁が立つ源行家も源頼朝の心はつかめませんでした。
源頼朝に取り入ることができていれば、源行家の人生も大きく変わったのではないでしょうか。

源行家は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場しています。

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