烏帽子形城の特徴、織田信長と豊臣秀吉が重要視した理由

大阪府南部に存在した烏帽子形城。

決して華やかではない、よく知られていない城ですが、戦国時代には織田信長や豊臣秀吉から重宝されました。

烏帽子形城特徴織田信長豊臣秀吉が烏帽子形城を重要視した理由を紹介します。

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烏帽子形城の特徴

烏帽子形城には、次のような3つの特徴がありました。

標高182メートルの烏帽子形山に存在した

烏帽子形城は烏帽子形山に存在しました。

烏帽子形山の標高は182メートルで、山頂から周囲の城をよく見渡すことができました。

烏帽子形城は敵の動きを把握し、味方に伝令を出すのに適していました。

石川、天見川に囲まれていた

烏帽子形城の東には天見川が、西には石川が、北には天見川と石川の合流地点がありました。

石川は大和川水系の一級河川で、天見川は石川の支流。
天見川と石川に囲まれた烏帽子形城はまさに天然の要塞でした。

お金と労力をかけなくても、烏帽子形城は敵に攻められにくい構造でした。

東高野街道と西高野街道の合流地点だった

① 東高野街道(山城国と河内国を結ぶ)
② 西高野街道(和泉国と河内国を結ぶ)
の合流地点だった烏帽子形城。

更に、
① 河泉街道(和泉国と河内国を結ぶ道)
② 九重道(紀伊国と河内国を結ぶ道)
③ 大沢越え(大和国と河内国を結ぶ道)
の分岐点で、まさに交通の要衝でした。

おゆう
おゆう

特に河泉街道は数々の時代を超えて利用されてきました。

南北朝時代には、天野の行在所(天皇の仮御所)と観心寺、千早や赤坂を結ぶ道として利用されました。

また、江戸時代には、堺や大坂にも通じ、物資が盛んに行き来しました。
例えば、高野豆腐は河泉街道を使って狭山藩から運ばれました。

また、公卿・中山忠光をリーダーとする天誅組が五条代官所を襲撃するために通行したのも河泉街道です。

織田信長と豊臣秀吉が烏帽子形城を重要視した理由

① 天然の要塞
② 交通の要衝
だった烏帽子形城は織田信長と豊臣秀吉から重要視されました。

織田信長が烏帽子形城を重要視した理由

天正2年(1574年)、大坂本願寺が挙兵。
高屋城の三好康長、遊佐信教が呼応し、織田信長に対抗するべく挙兵します。

その翌年、三好康長は降伏し、織田信長が河内国を平定。
烏帽子形城を残し、織田信長は河内国内にある城をことごとく破却しました。

織田信長が烏帽子形城を残したのは、河内国支配の拠点とするためです。

河内国を平定したといっても、河内国に住む人々全員が織田信長に従ったわけではありません。

命令に従わない金剛寺に呼びかけ

高屋城の戦いが終わってすぐ、織田信長は河内国に徳政令を出しました。
徳政令を出し、逼迫した生活から民を救うことで、織田信長は河内国の領主達を取り込もうとしたんです。

ところが、金剛寺は織田信長の命令に従いません。

そこで、織田信長は烏帽子形城に家臣・塙直正、松井友閑を派遣。
烏帽子形城から金剛寺に命令に従うよう呼びかけました。

金剛峯寺攻め

天正9年(1581年)、織田信長は高野山にある金剛峯寺を攻めます。
烏帽子形衆は王子之森で高野衆と戦い、手柄を上げました。

以前畠山氏に仕えていた烏帽子形城周辺の領主は「烏帽子形衆」と呼ばれていました。

高野山、雑賀をけん制

天正10年(1582年)、織田信長は徳川家康と共に甲州征伐を行います。

この時、烏帽子形衆を含む河内の領主は高野山、雑賀衆をけん制するよう命じられました。

豊臣秀吉が烏帽子形城を重要視した理由

天正10年(1582年)、本能寺の変で明智光秀が織田信長を討ちます。

明智光秀は豊臣秀吉に討たれ、この後、豊臣秀吉が天下統一を進めていくこととなりました。

紀州攻め

天下統一を目指す豊臣秀吉に立ちはだかった勢力の一つが紀州の寺社勢力。
天正11年(1583年)、豊臣秀吉は家臣・中村一氏を岸和田城の城主に命じます。

豊臣秀吉の紀州攻めに備えて、根来寺を中心とした紀州勢は、
① 岸和田城の南に澤城、積善寺城、千石堀城
② 岸和田城の東に切坂城、国見城
を構えました。

豊臣秀吉は国見城から9キロメートル東に位置する烏帽子形城に注目します。
中村一氏に烏帽子形城の修築を命じ、紀州攻めの拠点にしました。

高野山をけん制

烏帽子形城の南には高野山があります。

高野山は「豊臣秀吉が攻めてくるのではないか」と警戒しました。
このままでは、豊臣秀吉は紀州勢と高野山から挟み撃ちにされてしまうかもしれません。

そこで、豊臣秀吉は中村一氏、細井新介、戸田三郎四郎を通じて、

高野山を攻めるために、烏帽子形城に待機しているのではない。

と文章を送り、高野山の警戒を解きました。

まとめ:烏帽子形城は河内国平定、紀州攻めの拠点になった!

烏帽子形城特徴織田信長豊臣秀吉が烏帽子形城を重要視した理由を紹介しました。

① 標高182メートルの烏帽子形山に存在した
② 石川、天見川に囲まれていた
③ 東高野街道と西高野街道の合流地点だった
という特徴をもっていた烏帽子形城。

河内国平定や紀州攻めの拠点として、織田信長や豊臣秀吉から重宝されました。
大坂城や岸和田城のように目立つ城ではありませんが、戦の拠点に最適だったんですね。

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