後醍醐天皇と護良親王の関係は?確執が生まれた理由と迎えた最期

悪党・楠木正成と一緒に、鎌倉幕府を滅亡に導いた後醍醐天皇と護良親王。

後醍醐天皇護良親王関係
② 後醍醐天皇と護良親王の間に確執が生まれた理由
③ 護良親王の迎えた最期
を紹介します。

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後醍醐天皇と護良親王の関係は?

護良親王は延暦元年(1308年)生まれで、後醍醐天皇の第3皇子として誕生しました。
6歳で出家し、20歳という若さで第116世天台座主になります。

ところが、天台座主になっても寺院の運営に専念することなく、武芸を磨き続けます。
護良親王は貴族や僧とはかけ離れた異色の存在でした。

元徳3年(1331年)の元弘の乱で、鎌倉幕府が勝利。
敗北した後醍醐天皇は隠岐に配流となります。

この間、護良親王は奈良や吉野、熊野などの山中に潜伏し、楠木正成と一緒に幕府に対抗しました。
後醍醐天皇にとって、護良親王は頼もしい皇子だったに違いありません。

確執が生まれた理由

護良親王は討幕の立役者の一人でした。
でも、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇と護良親王の間に確執が生まれてしまいます。

何故、二人の間に確執が生まれたのでしょうか。

護良親王と足利尊氏の対立

鎌倉幕府滅亡後、兵が足利尊氏のもとに次々と集まっていました。

足利尊氏が新たに幕府を開く可能性は十分にありました。
もし、足利尊氏が幕府を開いたら、今までの努力が水の泡になります。

また、長年にわたって、楠木正成と一緒に討幕運動をしてきた護良親王にとって、
・終盤に幕府から寝返り、京を制圧した
・幕府滅亡後も京を支配し続けている
足利尊氏は面白くない存在でした。

護良親王は足利尊氏が危険な人物であることを訴え、追討の勅語を発するよう申し出ます。
でも、足利尊氏を恐れていた後醍醐天皇は対立を避けようと、護良親王の申し出を受け入れませんでした。

護良親王の強硬姿勢

後醍醐天皇は「京に戻るように」、「内裏に出仕するように」と護良親王に命じていました。

ところが、護良親王は命令に従わず、信貴山に籠もり、足利尊氏の挙兵に備えて陣を敷きます。
更に、後醍醐天皇に対して、「征夷大将軍に任命されれば、内裏に出仕する」と交換条件を突き付けました。

後醍醐天皇が足利尊氏を征夷大将軍に任命すれば、足利尊氏が幕府を開く可能性があったからです。

後醍醐天皇は護良親王を征夷大将軍に任命しますが、護良親王の強硬姿勢は後醍醐天皇に悪印象を与えてしまいました。

阿野廉子の陰謀

後醍醐天皇には8人の皇子がいました。

第1皇子・尊良親王は嘉暦元年(1326年)の皇太子選びで落選。
続いて、第2皇子である世良親王が後継者として注目されましたが、元徳2年(1330年)に病死。
第4皇子・宗良親王は建武の新政開始後に(再び)出家して天台座主に。

後醍醐天皇から正室・西園寺禧子の次に寵愛を受けていた阿野廉子は、建武元年(1334年)、実子である第5皇子・恒良親王を皇太子に立てることに成功します。

でも、征夷大将軍である護良親王が将来帝位を奪うかもしれません。
阿野廉子は「恒良親王の政敵」と言っても過言ではない護良親王を排除したいと思っていました。

護良親王の迎えた最期

① 後醍醐天皇から深い寵愛を受けていた
② 皇太子・恒良親王を産んだ
阿野廉子。

恩賞にあずかろうと、護良親王を慕っていた者達までも阿野廉子側につきました。
護良親王に義理を通した楠木正成は京を自ら離れました。

建武元年(1334年)11月、護良親王は清涼殿の詩会に出席しようと参内したところを捕らえられます。

そして、
① 足利尊氏を暗殺しようとした
② 後醍醐天皇から帝位を簒奪しようとした
という理由で、護良親王は征夷大将軍を解任され、鎌倉に流罪。

後醍醐天皇の命令を受けた名和長年、結城親光は護良親王を捕らえ、足利尊氏の弟・直義に引き渡しました。
そして、足利直義は護良親王を東光寺(神奈川県鎌倉市)の社殿裏にある土牢に幽閉し、監視し続けました。

確かに、足利尊氏との対立に備えて、護良親王は兵を集めていました。
集まった兵の中には、京白河周辺で辻斬りする者もいました。
でも、後醍醐天皇から帝位を簒奪しようとは全く思っていません。

土牢の中から、護良親王は「帝位簒奪は濡れ衣である」と書状を何度も送りました。
でも、後醍醐天皇と護良親王の争いに巻き込まれることを恐れ、足利方は書状を後醍醐天皇に渡しませんでした。

幽閉されてから8ヶ月後の建武2年(1335年)。
十四代執権・北条高時の子・北条時行がクーデター(中先代の乱)を起こします。

北条時行が護良親王を擁立したら、滅亡したはずの鎌倉幕府が復活するかもしれません。
足利直義の命令を受けた家臣・淵辺義博は護良親王を斬りました。

8ヶ月にも及ぶ幽閉生活を送った護良親王。
護良親王の付き添いとして唯一許されたのが側室・南御方(藤原保藤の娘)です。

護良親王を手厚く葬りたかった南御方は首級を抱えて、鎌倉をなんとか脱出。
雛鶴峠(山梨県都留市)にたどり着いた時、南御方は産気づきます。

なんと、南御方は護良親王の最後の子ども・日叡を授かっていたんです。
南御方は日叡を出産してすぐに亡くなってしまいます。

日叡は妙法寺(神奈川県鎌倉市)を開き、父・護良親王と母・南御方の菩提を弔いました。

まとめ:後醍醐天皇は実子より足利尊氏を生かした!

後醍醐天皇護良親王関係
② 後醍醐天皇と護良親王の間に確執が生まれた理由
③ 護良親王の迎えた最期
を紹介しました。

後醍醐天皇が隠岐に流されてもなお、討幕を諦めなかった護良親王。
足利尊氏との対立、強硬姿勢、阿野廉子の陰謀により、護良親王は殺害されてしまいました。

黙っていれば、殺されず、征夷大将軍に留まれたかもしれません。
でも、まっすぐ突き進んできた護良親王は黙っていられなかったんですね。

護良親王は大河ドラマ「太平記」に登場しています。

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