足利尊氏と北条時行の戦い・中先代の乱の経過と与えた影響

鎌倉幕府を裏切って六波羅探題を攻撃した足利尊氏。
足利尊氏のおかげで、後醍醐天皇は建武の新政を始めることができました。

ところが、そのわずか2年後、行方不明だった北条時行が反乱を起こします。

足利尊氏北条時行戦い中先代の乱経過与えた影響を紹介します。

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足利尊氏と北条時行の戦い・中先代の乱の経過

中先代の乱とは、建武2年(1335年)7月に
① 足利尊氏・直義兄弟(足利氏)
② 北条時行・諏訪頼重(旧鎌倉幕府軍)
の間で行われた戦いを指します。

中先代の乱の経過は後ほど紹介しますが、旧鎌倉幕府軍が足利氏に勝利し、鎌倉を一時的に支配します。
そのため、先代(北条氏)と後代(足利氏)の間と位置づけられ、中先代の乱と呼ばれています。

旧鎌倉幕府軍が鎌倉を支配した期間が20日だったため、廿日先代の乱とも呼ばれています。

北条時行が反乱を起こす

元弘3年(1333年)5月の倒幕から2年後の建武2年(1335年)7月。
信濃国において、北条得宗の残党が大規模な反乱を起こします。

反乱軍のリーダーは鎌倉幕府第14代執権・北条高時の次男・北条時行。

① 北条高時の長男・邦時は家臣に裏切られて殺される
② 北条高時の養子・治時は処刑される
などして、北条時行だけが行方不明となっていました。

信濃国は第2代執権・北条義時以来、北条氏が守護として支配してきた国。
北条旧臣も多く、北条時行は諏訪大社の神官武士団・諏訪氏に匿われていたんです。

反乱軍には、諏訪頼重をはじめ、諏訪氏や滋野一党など、かつて有力御内人だった者達も含まれていました。

反乱軍は朝廷の派遣した守護・小笠原貞宗軍を撃破。
国衙(長野県松本市)にたどり着き、国司・清原元頼を殺しました。

朝廷が足利尊氏を京に留める

消息不明だった北条時行の反乱は朝廷に大きな衝撃を与えました。

当時、北条時行は10歳でしたが、子供だからといって油断はできません。

北条時行は得宗の遺児で求心力が大きく、
・鎌倉幕府の滅亡を悲しむ者
・朝廷に不満を抱く者
が反乱に加わる可能性がありました。

反乱軍は鎌倉で改めて決起し、反乱軍は京にやって来るだろう。
誰もがそう予想しました。

ところが、反乱軍を食い止める方法について、
☑ 京を守るか
☑ 鎌倉に出向いて反乱軍を討伐するか
公家と足利尊氏の間で意見が割れます。

というのも、鎌倉将軍府には、
① 後醍醐天皇の第6皇子・成良親王が宮将軍
② 足利尊氏の弟・足利直義が執権
として赴任し、足利尊氏の三男・足利義詮をはじめ、足利家臣団が集っていました。

一方で、行政能力の高い北条旧臣を積極的に採用したため、将軍府内で分裂の起きる可能性がありました。

北条旧臣が鎌倉将軍府に留まるのか、それとも、反乱軍に加わるのか。
鎌倉から遠く離れた京では、北条旧臣の動きを把握できませんでした。

足利尊氏の家臣達は、

武士
武士

鎌倉に向かうべきです。

と進言しますが、足利尊氏は鎮守府将軍として京の防衛の指揮にあたらなければいけません。
また、鎮守府の管轄範囲は畿内と西国であり、天皇の勅許なく管轄外の関東に向かうことはできません。

足利尊氏は京を離れられませんでした。

反乱軍が鎌倉を掌握する

7月20日、反乱軍は女影原(埼玉県狭山市)で防備にあたっていた鎌倉将軍府を撃破。
小手指原、武蔵府中へと進み、あっという間に武蔵国と相模国の境にまで迫りました。

足利直義は手練れの兵を集める時間もなく、寄せ集めの兵で構成した軍で迎撃するしかありませんでした。
反乱軍と足利軍は井出の沢(東京都町田市)で激突しましたが、準備不足の足利軍はすぐに敗北します。

足利直義は将軍府にいる武家衆に鎌倉を離れるよう指示。
宮将軍・成良親王、当時5歳の足利義詮を連れて駿河国に向かいました。

反乱軍は鎌倉を掌握し、北条時行は諏訪頼重と共に凱旋しました。

朝廷が足利尊氏の鎌倉救援の申し出を却下する

反乱軍はすぐさま足利軍を追いかけ、駿河国手越河原で破ります。
足利直義は逃走し、なんとか三河国にたどり着きました。

三河国は足利氏の領地で、兵、武器、食糧に困ることがありませんでした。

8月2日、足利直義は反乱軍の追撃に備えつつ、成良親王を京に送り返しました。

この頃、足利尊氏は征夷大将軍と総追捕使(全国の守護の監督)への補任を願い出ました。
ところが、坊門清忠をはじめとする公家が、

公家
公家

武家に征夷大将軍を与えれば、鎌倉幕府の二の舞になります。

といって大反対。

足利直義が苦戦を強いられている間、足利尊氏は鎌倉に向かいたいと何度も申し出ていました。

でも、朝廷では、

公家
公家

東国は鎌倉将軍府でなんとかするのが当たり前だ!

といって、足利尊氏の申し出を次々と却下するだけでした。

足利尊氏が合流して反乱を鎮圧する

成良親王が京に戻ると、足利尊氏は入れ替わるように京を離れます。
天皇の勅許を得ないまま足利尊氏が出陣したことに、朝廷は騒然。

足利尊氏の怒りを恐れた後醍醐天皇は追って綸旨を下し、足利尊氏は征東将軍に任命されました。

足利尊氏は三河国に堂々と向かい、足利直義と合流しました。
9日に遠江国橋本を通過し、17日には箱根を越え、19日には鎌倉に攻め入り、諏訪頼重を討ちました。

北条時行は鎌倉に戻ってからわずか20日で鎌倉を奪われました。

与えた影響

足利勢は大きな損害を被りましたが、中先代の乱を鎮圧。
鎌倉に入った足利尊氏は将軍府の立て直しにかかります。

反乱を鎮圧したにも関わらず京に帰らない足利尊氏に対して、

公家
公家

謀反を企てているのではないか…

という議論が巻き起こりました。

後醍醐天皇は蔵人頭・中院具光を送り、足利尊氏に従二位に叙して、京に帰還させようと試みます。
ところが、足利尊氏は帰還しませんでした。

足利尊氏は、
① 弟、子供を助けたかった
② 鎌倉将軍府を立て直したかった
ため、後醍醐天皇の勅許を得ないまま単独で行動しました。

11月19日、後醍醐天皇は綸旨を発し、新田義貞を大将として、足利尊氏・直義兄弟討伐の軍を編成。
26日には、足利尊氏・直義兄弟の官爵を削りました。

こうして、足利尊氏は後醍醐天皇に立ち向かうしかなくなってしまいました。

まとめ:中先代の乱で足利尊氏と後醍醐天皇は仲たがい

足利尊氏北条時行戦い中先代の乱経過与えた影響を紹介しました。

北条時行が鎌倉を一時的に支配し、後醍醐天皇に衝撃を与えた中先代の乱。

中先代の乱における戦略の違いから、足利尊氏と後醍醐天皇の間に溝が生まれました。
足利尊氏が反旗を翻した翌年、後醍醐天皇は京を離れて比叡山に移ることになります。

足利尊氏は大河ドラマ「太平記」に登場しています。

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