千早城の戦いの前哨戦として知られる上赤坂城の戦い。
楠木正成の奇策が鎌倉幕府軍の吉川八郎に見破られ、上赤坂城は陥落しました。
上赤坂城の戦いの経過と影響を紹介します。
上赤坂城の戦いの経過
元弘元年(1331年)9月11日から10月21日にかけて、下赤坂城で行われた赤坂城の戦い。
赤坂城の戦いで籠城戦に耐えられなかった楠木正成は、下赤坂城に火をつけて逃亡しました。
下赤坂城を手に入れた鎌倉幕府は、戦で手柄をあげた湯浅定仏に地頭職を与え、下赤坂城の守備を任せました。
元弘2年(1332年)末、潜伏生活を送りながら態勢を整えた楠木正成は下赤坂城を奪還。
敗北した湯浅定仏は一族と共に楠木正成に仕えます。
楠木正成は和泉国、河内国で勢力を一気に拡大し、天王寺で幕府軍を撃破しました。
① 生存していた
② 下赤坂城を奪還した
③ 湯浅党を味方につけた
ことで、赤坂城の戦いで楠木正成は自害したと思っていた幕府の面子は丸つぶれ。
こうして、楠木正成は幕府軍から再び狙われることになりました。
当時の楠木正成の拠点は千早城。
幕府軍が千早城を攻めるためには、千早城の手前にある上赤坂城を攻略しなければいけませんでした。
上赤坂城の主将は平野重吉(将監)、副将は楠木正成の弟・楠木正季。
① 公卿・西園寺公宗の家人
② 楠木正成の官位(左衛門少尉)より2階級上の近衛将監
でした。楠木正季ではなく平野重吉を主将に選んだのは、楠木正成の敬意と配慮があったからだと考えられています。
幕府軍の兵力8500人に対し、平野軍の兵力はわずか30人だったといわれています。
抜け駆けにより、幕府軍は統制を取れない
元弘3年(1333年)2月22日、わずか14歳の阿蘇治時率いる幕府軍が上赤坂城に到着。
抜け駆けした者は処罰する!
と通告します。
① 人見四郎入道(光行)率いる一族
② 本間九郎(資貞)率いる一族
が抜け駆けして攻めました。
人見四郎入道はこの時73歳の労将。
「ただ討死するのは嫌だ。せめて、一番槍を取って死にたい」と願っていました。
人見四郎入道に手柄を取られたくなかった本間九郎も一緒に抜け駆け。
二人とその一族は平野軍に矢を射られて討死しました。
こうして、幕府軍は各々が攻撃を仕掛け、統制を取れなくなりました。
人見氏一族は15人が、本間氏一族は100人が討死。
後に後醍醐天皇に仕え、三木一草の一人に名を連ねる結城親光も幕府軍として参戦していましたが、結城氏一族も70人が討死しました。
幕府軍が水の補給路を断つ
阿蘇治時は大軍で一気に攻め入ろうとしましたが、城に通じる道は細く、平野軍に矢で射られて全く進めません。
連日多くの負傷者を出す幕府軍に、播磨国の吉川八郎が次のように進言します。
火矢を放っても水で消化されるのは、城に水の補給路があるからでしょう。
ただ、辺りを見回しても、水路はありません…地下に水路があるのでは?
山の麓を掘れば、城に通じる水路がみつかるかもしれません。
早速5000人に麓を掘らせると、吉川八郎の言ったとおり、水路が見つかりました。
水路を破壊された平野軍は火矢を消せず、また、水を飲めなくなってしまいます。
幕府軍が攻撃し始めて25日後、上赤坂城はついに落城しました。
平野重吉は処刑され、楠木正季は千早城に落ち延びる
平野重吉は助命を条件に幕府軍に降伏します。
ところが、長崎高貞は約束を破棄し、引き渡し先の六波羅探題によって処刑されました。
楠木正季は千早城に落ち延び、この後続く千早城の戦いに参戦します。
上赤坂城の戦いの影響
上赤坂城の戦いで楠木正成に勝利した幕府軍。
ただ、勝利したものの損害が大きく、幕府の権威を失墜させました。
また、悪党である楠木正成に勝利しても、武士が得られる恩賞はありません。
幕府軍の士気は下がり、後醍醐天皇に寝返る者が増え始めました。
まとめ:上赤坂城の戦いの敗北が千早城の戦いの奇策に!
上赤坂城の戦いの経過と影響を紹介しました。
大軍で攻めても、上赤坂城の攻略に25日間も要した幕府軍。
上赤坂城を攻略した幕府軍は、同じ作戦で千早城の攻略を目指しますが、楠木正成の奇策に悩まされることになります。
楠木正成は大河ドラマ「太平記」に登場しています。
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