奇策がキラリ!楠木正成が湯浅定仏から赤坂城を奪還した経緯

赤坂城の戦いで幕府軍に敗北し、自害したように見せかけて落ち延びた楠木正成と護良親王。

二人はバラバラになりましたが、連絡を頻繁に取り合い、挙兵するチャンスをうかがっていました。
楠木正成がまず行いたかったのは、幕府軍に奪われた赤坂城を取り戻すことです。

楠木正成湯浅定仏から赤坂城奪還した経緯を紹介します。

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湯浅定仏の荷駄隊になりすます

幕府軍が奪った赤坂城主は戦で功績をあげた豪族・湯浅定仏(じょうぶつ)が務めていました。
湯浅定仏は赤坂城の修復に取りかかり、完成が近づくと、紀州から米を運び入れる段取りを整えました。

和歌山県有田郡に湯浅町という町がありますが、湯浅定仏の領国はまさに紀州でした。

元弘2年(1332年)12月、楠木正成は紀州から赤坂城に兵糧が運び込まれるという情報を入手。
楠木正成は30人の軍を構成しました。

何故、わずか30人の軍を構成したのでしょうか。

それは、湯浅定仏の荷駄隊が30人だったからです。

楠木軍は荷駄隊に変装するつもりでした。
湯浅定仏の荷駄隊と数が合わなければ、湯浅軍から怪しまれてしまいます。

楠木軍は赤坂城に向かう荷駄隊を襲い、米俵から米を取り出して武具を入れました。
更に、衣服を剥ぎ取り、荷駄隊を装いました。

赤坂城に侵入する

赤坂城門前に到着したニセ荷駄隊は、

武士
ニセ荷駄隊

米を運び込みたい!楠木軍に追われている!

と言って、湯浅定仏に開門を促しました。

楠木正成はニセ荷駄隊の背後で菊水紋の旗を掲げ、追撃しているように見せかけます。

信じた湯浅定仏は急いで開門し、ニセ荷駄隊を城内に入れると同時に、楠木軍を追い払うために出陣。
楠木軍を城内に入れないようにと焦った湯浅定仏は城門を閉じてしまいました。

城外の混乱、城内の人気のなさを利用して、ニセ荷駄隊は米俵を開けて、武具を装備。
そして、菊水紋の旗を掲げて、湯浅定仏の前に姿を現しました。

楠木軍が城内にいると思ってもいなかった湯浅軍は混乱に陥ります。
城から逃げようと開門しても、城は楠木軍によって包囲されています。

湯浅定仏は降伏し、楠木正成は城を傷つけることなく、戦わずして赤坂城を取り戻しました。

湯浅定仏を味方に取り込む

湯浅定仏は死を覚悟していましたが、楠木正成は紀州に戻るように言います。

楠木正成の優しさに感動した湯浅定仏は以降楠木正成に従うと約束し、兵をまとめて紀州に帰りました。
この後、湯浅氏を味方につけた楠木正成は和泉国、河内国で勢力を一気に拡大しました。

後に、紀州湯浅党の六十谷定尚は建武の新政に不満を抱き、北条高時の一族・佐々目憲法を擁して蜂起します。
後醍醐天皇から河内国の守護に任命されていた楠木正成は、湯浅党を征伐する苦しい立場に立たされました。

倒幕のために協力した同志を討たなければならない。
この出来事は、楠木正成が後醍醐天皇と距離を置いた原因の一つだと考えられています。

まとめ:最初から最後まで楠木正成の作戦どおり!

楠木正成湯浅定仏から赤坂城奪還した経緯を紹介しました。

敵の荷駄隊に変装し、赤坂城に侵入して内外から攻撃を仕掛けた楠木軍。

楠木正成は、
① お金をかけることなく
② 敵・味方の兵を失うことなく
修復の完了した赤坂城を手に入れました。

兵一人一人を傷つけたくないという楠木正成の誠実さに、湯浅定仏は惹かれたのかもしれませんね。

楠木正成は大河ドラマ「太平記」に登場しています。

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