二度目の上洛を目指す北畠顕家とそれを阻止する佐竹貞義の戦い・甕の原合戦。
北畠顕家は甕の原合戦で勝利しますが、北畠顕家を勝利に導いたのは豪族・那珂通辰でした。
北畠顕家と佐竹貞義の甕の原合戦の経過と那珂通辰のその後を紹介します。
北畠顕家と佐竹貞義の甕の原合戦の経過
出家していた足利尊氏が急きょ参戦した箱根・竹ノ下の戦い。
足利尊氏・直義兄弟に敗北した新田義貞は官軍を率いて、東海道を京に向かって敗走しました。
官軍敗北の一報を聞いた北畠顕家は義良親王を奉じ、建武2年(1336年)12月22日に多賀城を出発して上洛を目指します。
途中、北畠顕家は足利尊氏の三男・義詮と弟・直義を討つべく、鎌倉に向かいました。
北畠顕家が勿来関から常陸国に入る
多賀城から関東に入る道は、
① 白河の関を越える道
② 勿来関(なこそのせき)を越える道
の2つ。
兵5万人の大軍を率いていた北畠顕家は、
① 軍を動かしやすい平野と海に沿っている
② 兵糧を調達しやすい
勿来関(福島県いわき市)を越える道を選び、常陸国に入りました。
常陸国の守護・佐竹貞義が関東から武士を集める
常陸国の守護は足利尊氏に仕える佐竹貞義。
② 足利尊氏と同じ夢窓疎石に帰依した
ことで、足利尊氏と交流を深めた佐竹貞義は、常陸国の守護を任されていました。
でも、佐竹氏は鎌倉幕府から冷遇されていた、中先代の乱の一つ・鶴見合戦で敗北していたため、肩身の狭い生活を送っていました。
佐竹貞義は今回の戦で手柄をあげて出世しようと意気込んでいました。
北畠顕家率いる奥州軍の進軍を阻止するように命じられた佐竹貞義は、早速準備に取り掛かります。
佐竹貞義の居城・太田城には、関東の武士が続々と集まっていました。
那珂通辰が北畠顕家に加勢する
常陸国の豪族だった結城宗広・親朝は北畠顕家に従って、奥州軍として参戦しました。
常陸国はもちろん、関東をよく知っている結城宗弘は那珂氏を頼るようアドバイスします。
那珂通辰(みちとき)は那珂川の中流から佐竹軍の背後を攻める作戦を提案。
北畠顕家は伊達行朝に奥州軍の騎馬隊500人を預け、那珂氏と協力して、佐竹軍の背後に向かうよう命じました。
佐竹貞義が奥州軍を挟み撃ちする
両軍は甕の原(茨城県日立市)で激突。
伊達行朝と騎馬隊が那珂川の中流に向かっている最中に、奥州軍と佐竹軍の戦が始まりました。
佐竹貞義は5000人の兵を2つの部隊に分けて、奥州軍を挟み撃ちします。
奥州軍は佐竹軍から激しい攻撃を受け、苦戦を強いられました。
北畠顕家・那珂通辰が佐竹軍を挟み撃ちして勝利する
しばらくすると、佐竹軍の背後でざわめきが起こりました。
伊達行朝と那珂通辰率いる騎馬隊が佐竹軍の背後を攻撃したんです。
奥州軍を挟み撃ちしていた佐竹軍は、逆に挟み撃ちされる立場に。
油断していた佐竹軍は総崩れとなり、戦の結果は奥州軍の勝利でした。
那珂通辰のその後
戦で手柄を立てた那珂通辰は北畠顕家と共に上洛し、後醍醐天皇から菊桐紋を与えられました。
ところが、建武3年/延元元年(1336年)12月。
佐竹貞義が長男・義篤、次男・義春と共に南朝方の瓜連城を攻略したことで、那珂氏一族の運命は一変します。
瓜連城を手に入れた佐竹氏は常陸国北部を完全に掌握しました。
佐竹氏に敗れた那珂氏一族34人は、勝楽寺に落ち延びて自害します。
ただ、那珂通辰の子供・通泰一人が生き残り、北朝方(足利方)に降伏し、那珂氏を存続させました。
その後、那珂通泰は戦で手柄をあげ、常陸国那珂郡江戸郷を与えられます。
那珂通泰の子供・通高は江戸氏を名乗り、佐竹義篤の娘と結婚しました。
まとめ:那珂通辰がいなければ、北畠顕家は敗北していた?
北畠顕家と佐竹貞義の甕の原合戦の経過と那珂通辰のその後を紹介しました。
北畠顕家率いる奥州軍の兵は5万人、一方、佐竹貞義率いる佐竹軍の兵は5000人。
那珂通辰がいなくても、北畠顕家は佐竹貞義に勝利できたかもしれません。
でも、この後に鎌倉を攻略しなければいけなかった奥州軍は、
① 被害を最小限に食い止める
② 戦を短時間で終わらせる
必要がありました。
那珂通辰がいたからこそ、北畠顕家はこの後の戦で勝ち続けることができたんですね。
北畠顕家は大河ドラマ「太平記」に登場しています。
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