直江兼続は本多正信の次男・政重をなぜ養子に?弟への影響は?

上杉景勝を生涯支え、豊臣秀吉や徳川家康から一目置かれていた直江兼続。
直江兼続の跡継ぎは長男・景明ではなく、本多正信の次男・政重でした。

本多正信の次男・政重の生涯
直江兼続が本多政重を養子に迎えた理由
大国実頼に与えた影響
を紹介します。

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本多正信の次男・政重とは?

本多正信は徳川家康のいわゆる参謀。
軍事、外交、政治など、幅広い分野で、徳川家康のブレーンとして活躍しました。

本多正信には、長男・正純と次男・政重がいました。
本多正純は父・正信の跡を継いで、徳川家康・秀忠親子に仕えます。

対して、本多政重は徳川秀忠の乳母の息子・岡部荘八を斬る事件を起こし、徳川家を出奔。
徳川家を去った本多政重は大谷吉継や宇喜多秀家に仕えました。

ところが、関ヶ原の戦いで西軍に属していた宇喜多家が敗北。
本多正信の次男という理由で刑を免れた本多政重は、福島正則や前田利長に仕えることになりました。

慶長8年(1603年)、宇喜多秀家の身柄が徳川家康に引き渡されることが決まりました。
宇喜多秀家に対する情から、本多政重は前田家を離れ、主君をもたない浪人になりました。

主君(仕える大名)をコロコロと変えていた本多政重。
本多政重は出奔したのではなく、徳川家が送り込んだスパイだったのではないかともいわれています。

直江兼続は本多正信の次男・政重をなぜ養子に?

関ヶ原の戦いで徳川家康に刃を向けた上杉景勝。
上杉家は越後から米沢に移封され、石高は120万石から30万石にまで減りました。

上杉家の家老を務めていた直江兼続は、家中の再編と財務再建に追われます。

直江家家紋
直江兼続

今大事なのは、上杉家と徳川家の関係を改善し、深めること。

そこで、直江兼続が注目したのが、本多正信の次男・政重です。
本多政重は関ヶ原の戦いの罪を免れて、福島正則や前田利長に仕え、今は浪人として生きる自由の身。

直江家家紋
直江兼続

本多政重を直江家の跡継ぎとして養子に迎え、自分の娘・於松と結婚をさせる。
そうすれば、本多政重を通じて、本多正信、そして、徳川家康と仲良くなることができる。

上杉家の動向を知りたい本多正信にとっても、悪い話ではありません。

慶長9年(1604年)、直江兼続は本多政重を養子に迎えました。

本多政重は直江勝吉と名前を改めますが、混乱を避けるため、こちらでは本多政重と記載します。

関ヶ原の戦いで敗北した大名の中には、徳川家康に対して恨みを抱く者も少なくありませんでした。
徳川家康の側近・本多正信から養子を迎えることは、徳川家への忠誠心を示す手段でもありました。

ところが、本多政重と於松が結婚した翌年、於松が20歳の若さで亡くなります。

直江家家紋
直江兼続

このままでは、徳川家との結びつきが薄れてしまう。

焦った直江兼続は姪・阿虎(弟・大国実頼の娘)を養子に迎え、本多政重に嫁がせました。

この年、本多正信を通じて、上杉家は軍役10万石を免除されます。
家中の再編と財務再建を急がなければいけなかった上杉家にとって、とても嬉しい配慮でした。

また、本多正信の仲介により、直江兼続の長男・景明は膳所藩主・戸田氏鉄の娘と結婚します。
直江兼続の狙い通り、本多正信・政重親子を通じて、徳川家との関係を良好に保つことができました。

慶長16年(1611年)、本多政重は32歳で直江家を離れます。

本多政重が直江家を離れたのは、
① 直江兼続の長男・景明が十分成長した
② 徳川家康の密命を受けた
からだといわれています。

直江家家紋
直江兼続

実際、本多政重の出奔後、直江景明が跡継ぎになりました。

翌年、慶長17年(1612年)には、藤堂高虎の仲介で前田家に戻ります。
3万石を拝領し、家老となって前田利常をサポートしました。
この時、阿虎や直江家の旧臣が本多政重に従い、加賀に移り住んでいます。

阿虎との夫婦生活は、寛永4年(1627年)に阿虎の死をもって終わり。
本多政重は政略結婚で直江家に入りましたが、本多政重が周囲から慕われていたことがわかりますね。

弟への影響は?

娘や姪を本多政重と結婚させ、上杉家・直江家と徳川家の結び付きを強めた直江兼続。
でも、この政略結婚は直江兼続と大国実頼の兄弟仲に悪影響を及ぼしました。

紹介したように、直江兼続には長男・景明がいました。
にも関わらず、直江兼続は本多政重を養子に迎え、直江家の跡取りにしました。

直江家家紋
直江兼続

これを嫌がったのが、直江兼続の弟・大国実頼です。

養子縁組に反対していた大国実頼は、自分の娘・阿虎まで巻き込んだことに大激怒。
阿虎を迎えるために上洛した使者を斬ってしまいます。

そして、そのまま出奔して、高野山に逃亡しました。

大国実頼が米沢の地を踏んだのは、直江兼続の死後。
米沢北郊の中小松村で、元和8年(1622年)まで暮らしました。

大国実頼の墓は二人の生家・樋口家の菩提寺である関興庵にあります。

まとめ:弟と仲が悪くなっても、全ては上杉家のために!

本多正信の次男・政重の生涯
直江兼続が本多政重を養子に迎えた理由
大国実頼に与えた影響
を紹介しました。

直江兼続が本多政重を養子に迎えたのは、徳川家との結び付きを強めるためです。

自分の子や弟よりも上杉家、米沢の繁栄を大事にした直江兼続。
直江兼続の行動には、上杉景勝と民への忠誠心がこめられているんですね。

私欲を捨てて、義と愛を貫いた直江兼続。
2009年のNHK大河ドラマ「天地人」を見て、直江兼続に興味をもった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
直江兼続について知りたい方は、火坂雅志著「天地人」がおすすめ。

大河ドラマとは設定が少し異なりますが、「天地人」の原作本です。
直江兼続を取り巻く上杉景勝、豊臣秀吉や徳川家康の心情、視点も丁寧に描かれています。
真田幸村とのやり取りにも注目です。
ぜひ一度、「天地人」を読んでみてください

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