足利義昭はなぜ鞆に幕府を開いた?庇護した毛利氏のメリットとデメリット

「崖の上のポニョ」の舞台で知られる鞆の浦。
今から150年前、室町幕府第15代将軍・足利義昭が鞆で政権を樹立したことをご存じでしょうか。

足利義昭幕府を開いた理由庇護した毛利氏メリットデメリットを紹介します。

スポンサーリンク

鞆幕府とは?

鞆幕府とは、備後国の鞆(現在の広島県福山市)に存在した室町幕府の亡命政権を指します。

開いたのは、京を追放された室町幕府第15代将軍・足利義昭。
昔から「鞆幕府」と呼ばれていたわけではなく、歴史学者・藤田達生さんによって提唱されました。

室町幕府が滅亡した年については、
① 足利義昭が京を追放された天正元年(1573年)
② 足利義昭が鞆を出て、京で将軍職を返上した天正16年(1588年)
の2つの説があります。

一般的には天正元年(1573年)とされています。
ただ、足利義昭が鞆で将軍の力を発揮していたことから、天正16年(1588年)という見方もできます。

ゆこ
ゆこ

・天正元年(1573年)に事実上滅亡
・天正16年(1588年)に形式的にも滅亡
という考え方がわかりやすいかもしれません。

足利義昭はなぜ鞆に幕府を開いた?

元亀4年(1573年)7月、槇島城の戦いで敗れた足利義昭は京を追放されます。
以降、織田信長と対立する戦国武将を訪ね、河内、和泉、紀伊など、各地を流浪しました。

3年後の天正4年(1576年)2月、足利義昭は紀伊由良の興国寺を出て、鞆に移ります。
足利義昭が鞆を選んだ理由は3つあります。

初代将軍・足利尊氏が新田義貞追討の院宣を受けた場所だから

建武3年(1336年)、楠木正成と新田義貞に敗れた足利尊氏。

九州で態勢を整えた足利尊氏は京へ向かいます。
その道中、足利尊氏は鞆で光厳上皇から院宣を受けました。

この3ヶ月後、足利尊氏は京を制圧しました。

第10代将軍・足利義稙が京復帰を果たした場所だから

明応2年(1493年)、細川政元に京を追放された足利義稙。
周防に移った足利義稙は大内氏の支援を受けて、瀬戸内海を東へ進みます。

その道中鞆に立ち寄り、足利義稙もまたこの3ヶ月後に帰京しました。

鞆は足利将軍家にとって縁のある場所で、足利義昭はゲン担ぎで鞆を選びました。

毛利氏に協力してほしかったから

鞆に移った足利義昭は早速御内書を送り、毛利輝元に幕府復興の協力を要請しました。

毛利氏は瀬戸内海に水軍をもち、鞆を支配していたからです。

また、「織田信長は毛利氏に敵対心を抱いている」と述べ、一緒に戦おうと鞆に移ったとも伝えました。

ところが、足利義昭が鞆に移ることについて、毛利輝元に予め連絡はありませんでした。
毛利輝元は足利義昭の事後報告にビックリ。

織田信長と対立したくなかった毛利輝元は、
・足利義昭が鞆に移った
・室町幕府復興の協力を要請された
・織田信長追討を要請された
ことに悩み、3ヶ月もの間検討しました。

毛利輝元が出した答えは足利義昭と協力すること。

この答えの背景は、
① 同盟関係にあったものの、織田信長が西に進出していた
② 毛利氏が敵対していた浦上宗景を織田信長が支援した
③ 浦上宗景と対立する宇喜多直家が毛利氏を頼ってきた
④ 織田信長が足利尊氏と対立する九州の戦国大名の力を借りようとしていた
ためです。

このままでは近畿と九州から挟み撃ちにされてしまう。
危機感を抱いた毛利輝元は足利義昭の要請を受けると決意。

これにより、毛利氏と織田信長の同盟は完全に破綻しました。

足利義昭を庇護した毛利氏のメリットとデメリット

織田信長との関係を重視し、足利義昭の要請を当初無視していた毛利氏。
ところが、一転して足利義昭の要請を受け、鞆幕府は毛利氏の権力と一体化しました。

足利義昭を庇護した毛利氏にはどのようなメリットとデメリットがあったのでしょうか。

足利義昭を庇護した毛利氏のメリット

足利義昭を庇護した毛利氏のメリットは6つあります。

戦国大名を味方に引き入れやすくなった

足利義昭によって副将軍に任命された当主・毛利輝元。

副将軍は将軍に次ぐ高い地位で、将軍の力を借りれば、各国の戦国大名との衝突を避けられました。
また、「将軍のために力を貸してほしい」と言えば、多くの戦国大名を味方に引き入れることができました。

名が全国に知れ渡った

足利義昭を擁立したことで、毛利氏の存在が全国に知れ渡りました。
これは、戦国大名を味方に引き入れるうえで、大きなメリットでした。

外交を有利に進められた

一般的に、戦国大名同士での外交では、格上・格下が重視されます。
同盟関係を結ぶといっても、立場が対等であることはほとんどありません。

副将軍に就任した毛利輝元は戦国大名の格上。
足利義昭が各地に出す御内書には毛利輝元の副状が添えられ、外交を有利に進められました。

軍事面の正当性を得た

反抗する織田信長から将軍・足利義昭を守る。
織田信長と戦うことについてこれ以上の正当性はなく、毛利氏は大義名分を得ました。

毛利軍の士気が高まった

織田信長や豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と最前線で戦う毛利軍。

戦で敗北した毛利軍に対して、足利義昭は家臣を派遣し激励しました。
足利義昭からの激励に毛利軍は奮起し、士気が高まりました。

荒木村重が毛利氏に帰順した

天正6年(1578年)10月、荒木村重は有岡城に立てこもり、織田信長に反旗を翻しました。

実は、荒木村重を調略したのは足利義昭。
足利義昭は配下・小林家孝を荒木村重に送り、毛利氏に帰順するように説得しました。

荒木村重の帰順を喜んだ毛利輝元は小林家孝の功績を称えたといわれています。

足利義昭を庇護した毛利氏のデメリット

足利義昭を庇護した毛利氏のデメリットは3つあります。

足利義昭に財政支援をしなければいけなかった

京を追放され鞆に移っても、足利義昭が将軍であることに変わりはありません。

将軍としての品格を保てるよう、身なりに気を遣い、それなりに裕福な生活を送る必要があります。
そこで、足利義昭は毛利氏に財政支援を求めました。

足利義昭に仕えた者は近習だけで50人以上。
毛利氏は配下の諸将と分担して、足利義昭とたくさんの従者を養いました。

足利義昭の意見を尊重しなければいけなかった

たとえ将軍であっても、足利義昭の意見に強制力はありません。
ただ、足利義昭が将軍、毛利輝元が副将軍という序列があります。

毛利輝元は足利義昭の作戦を取り入れたり、時には譲歩したりしました。

足利義昭に乗っ取られるリスクがあった

毛利家中の主君は毛利輝元ですが、毛利輝元の上に立つのは将軍・足利義昭。
主君が二人になり、足利義昭派と毛利輝元派の生まれるリスクがありました。

ただ、足利義昭は毛利輝元に配慮し、毛利氏の諸将に恩賞を与える際には、毛利輝元を必ず介しました。

まとめ:足利義昭と毛利氏は持ちつ持たれつの関係

足利義昭幕府を開いた理由庇護した毛利氏メリットデメリットを紹介しました。

織田信長を討ち、京に帰ることを夢見た足利義昭。
足利尊氏と足利義稙にあやかり、毛利氏の支援を求めて鞆に移りました。

毛利氏は足利義昭に財政支援をしたり、意見を尊重したりながら、多くの戦国大名を味方につけて織田信長と戦いました。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

タイトルとURLをコピーしました