徳川家康はいつなぜ江戸に移った?国替えの意外なメリットとは?

慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いた徳川家康。

徳川家康はいつなぜ江戸に移ったのでしょうか?
出身地・三河国を離れて、江戸に移るメリットはあったのでしょうか?

徳川家康江戸に移った時期理由メリットを紹介します。

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徳川家康はいつ江戸に移った?

天正18年(1590年)2月に、豊臣秀吉が北条氏政・氏直親子に対して行った小田原征伐。

小田原征伐で敗北した
・北条氏政は切腹
・北条氏直は高野山に流刑
となり、北条氏は関東から追い出されました。

小田原征伐の成功により、東は関東から西は九州まで平定した豊臣秀吉。
同年7月、豊臣秀吉は徳川家康を含む家臣に国替えを命じます。

徳川家康は治めていた三河国、遠江国、駿河国、信濃国、甲斐国を没収されました。

そして、代わりに、北条氏の治めていた
① 武蔵国
② 伊豆国
③ 相模国
④ 上野国
⑤ 上総国
⑥ 下総国
⑦ 下野国
⑧ 常陸国
の関東8ヶ国を与えられました。

織田信長の次男・織田信雄は尾張国・伊勢国から徳川家康の旧領に国替えを命じられました。

すると、織田信雄は「先祖代々治めた尾張を離れたくない」と言って拒否。
織田信雄は改易され、下野国烏山、続いて、伊予国に流刑となりました。

国替えを命じられた3日後、徳川家康は小田原城を出発。

同年7月18日、江戸に到着しました。

徳川家康はなぜ江戸に移った?

紹介したように、徳川家康は国替えを命じられて江戸に移りました。

何故、関東8ヶ国のうちの武蔵国にある江戸城に移ったのでしょうか。
他の国や城は選択肢に挙がらなかったのでしょうか。

豊臣秀吉に命じられたから

小田原城は武田信玄や上杉謙信の攻撃を跳ね返した難攻不落の城。

北条氏政・氏直親子は小田原征伐に備えて守りを強化していました。
籠城戦の後に開城したため、小田原城はほぼ無傷。

国替えを命じられた徳川家康は改修する必要のない小田原城を拠点にするつもりでした。

ところが、徳川家康の考えを知った豊臣秀吉は反対。

小田原城は東国の端なので、軍略に優れた家臣に守らせなさい。
(徳川家康は)江戸城を本拠地にしなさい。

と言いました。

江戸城は長禄元年(1457年)に築かれた城。
築城から130年以上が経過した江戸城は荒れ果てていました。

東国を担う徳川家康には似合わない城。

でも、豊臣家臣である徳川家康は逆らうことができませんでした。

何故、豊臣秀吉は徳川家康を江戸に移したのでしょうか。

徳川家康が邪魔だったから

永禄5年(1562年)に、徳川家康と織田信長は清洲同盟を結びました。
裏切りの多い戦国時代には珍しく、清洲同盟は本能寺の変で織田信長が討たれるまで続きます。

織田家臣だった豊臣秀吉にとって、徳川家康は主君の同僚で上司のような存在。
豊臣家臣になったとはいえ、徳川家康を無下に扱うわけにいきません。

そこで、江戸に移封することで、栄転のように見せかけて徳川家康を京都や大坂から遠ざけました。

徳川家康を信頼、評価していたから

関東を平定した豊臣秀吉は勢いにのって奥州仕置に乗り出します。

徳川家康が去った東海には、豊臣家の重臣が配置されました。

大坂より近いとはいえ、東海から奥州までは遠い道のり。
そこで、豊臣秀吉は関東を食糧や武器の補給拠点とすることにし、徳川家康に統治を任せました。

豊臣軍が関東を通過する時に、
① 徳川家康が謀反を起こす
② 食糧や武器を渡さない
など、豊臣秀吉の予期せぬ行動に出たら、奥州仕置は失敗してしまいます。

徳川家康を江戸に移したのは、豊臣秀吉が徳川家康を信頼、評価していたからといっても過言ではありません。

江戸に可能性を見出していたから

紹介したように、小田原城は東国の端。

一方、江戸城は関東平野の中央に位置します。
関東8ヶ国を統治するのに、江戸城は最適な城でした。

また、北条氏が拠点とした小田原城、源氏が拠点とした鎌倉は山に囲まれていました。
山に囲まれた土地は敵の攻撃を避けるのには適した土地。

おゆう
おゆう

でも、豊臣秀吉が平定した今、大名間で争うことはありません。

海に面している、多くの川の終着点である江戸は物流の発展が大いに見込める土地でした。

北条氏と姻戚関係にある徳川家康は、江戸に関する情報を入手しやすい立場。
豊臣秀吉以上に、江戸を都市化するイメージが湧いていたのかもしれません。

国替えの意外なメリットとは?

国替えを命じられる前の徳川領は東海5ヶ国で150万石。
国替えを命じられた後の徳川領は関東8ヶ国で240万石。

実は、徳川家康の石高は豊臣秀吉より上。

一見すると、徳川家康の関東移封は栄転です。

でも、
・豊臣政権の中心である京都や大坂から離れていた
・拠点とするには、江戸城が手狭である
・関東平野が湿地でまちづくりには適していない
ことから、徳川家臣は国替えに大反対しました。

徳川家康自身、生まれ育ち、また、自ら勝ち取った5ヶ国を手放したくはありませんでした。

でも、徳川家康にとって、関東移封にはメリットがありました。

戦国大名には共通した悩みがありました。

それは、土豪出身の武士とその家来の繋がりです。

先祖代々土地を受け継ぎ、その土地を支配してきた土豪。
家来は土豪を主君とし、土豪の主君を敬いませんでした。

そのため、戦国大名は土豪の多い国の統治に苦労していました。

国替えは土豪出身の武士を出身地から切り離すチャンス。

豊臣秀吉の命令に従わなければどうなるか。
国替えを拒否した織田信雄が改易されたと知っている徳川家臣は反対し続けることができませんでした。

まとめ:江戸移封は中央集権化のチャンスだった!

徳川家康江戸に移った時期理由メリットを紹介しました。

小田原征伐後、豊臣秀吉の命令を受けて江戸に移った徳川家康。

① 江戸が大きな都市になる可能性を秘めている
② 土豪出身の武士を三河から切り離すチャンスだ
と感じた徳川家康は、江戸に移るとすぐまちづくりに取り掛かりました。

徳川家康にとって、関東移封は人生最大のターニングポイントだったのではないでしょうか。

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