梁に大きなダメージを与えた侯景の乱。
侯景は東魏から梁に帰順し、梁に見放されて挙兵しましたが、何故、梁は侯景の帰順を受け入れたのでしょうか。
また、何故、侯景を見放したのでしょうか。
梁が侯景の帰順を受け入れた理由と見放した理由を紹介します。
梁が侯景の帰順を受け入れた理由
梁は北朝と小さな衝突を度々繰り返し、特に淮河では戦いの途絶えることがありませんでした。
毎回勝敗は決まらず、梁と北朝の力は互角でしたが、やがて北魏は衰退し、534年、東魏と西魏の2国に分裂しました。
梁の初代皇帝・武帝(蕭衍)はこの機に北朝を征討したいと思っていました。
ちょうどこの時、東魏から侯景が梁に帰順を申し出ました。
侯景は東魏で司徒・河南大行台に任命されていて、10万人の兵と河南一帯の地の支配権を与えられていました。
侯景の帰順を受け入れるべきか拒むべきか、武帝は朝廷で話し合いました。
多くの官吏が「侯景を信用できない」と言う中、武帝の側近・朱异(しゅい)だけが「侯景の帰順を受け入れるべき」と言いました。
侯景が梁に帰順すれば、梁は東魏と戦わずして10万人の兵と河南一帯を手に入れることができるからです。
もともと侯景の帰順を受け入れたいと考えていた武帝は、朱异に背中を押されて、侯景の帰順を受け入れました。
梁が侯景を見放した理由
侯景が梁に帰順して間もなく、侯景は東魏の武将・慕容紹宗と戦って敗北しました。
侯景が寿春(安徽省淮南市)に退却した時、生き残っていた兵はほんのわずかで、侯景は軍を壊滅させてしまいました。
侯景の帰順を受け入れるように上奏した朱异は態度を一変し、梁から侯景を追い出し、東魏と和平を結ぶように上奏しました。
朱异を全面的に信頼していた武帝は、朱异の上奏に従いました。
梁が東魏と和平を結ぶと知った侯景は、利用するだけ利用して、失敗したらすぐに見捨てる武帝に激怒しました。
また、侯景は帰順した梁で生きていくことも、もともと住んでいた東魏で生きていくこともできなくなり、行き場を失ってしまいました。
まとめ
梁が侯景の帰順を受け入れた理由と見放した理由を紹介しました。
梁が侯景の帰順を受け入れた理由は、侯景の帰順を受け入れれば、梁は東魏と戦わずして10万人の兵と河南一帯を手に入れることができたためです。
ところが、侯景が梁に帰順して間もなく、侯景は東魏に敗北し、軍を壊滅させてしまい、朝廷で侯景の価値を見直す議論が行われました。
丁度この時、東魏が和平を結ぶよう要求してきたため、梁は侯景を見放すことにしました。
侯景を利用するだけ利用して、失敗したらすぐに見捨てた梁。
行き場を失ったから、また、怒りをぶつける場が他に見つからなかったから、侯景は挙兵したのかもしれませんね。
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