【梁】侯景の乱が起きた原因と経過、与えた影響

梁の初代皇帝・武帝(蕭衍)は47年間も在位し、比較的安定した治世を築きましたが、晩年、東魏から侯景を迎え入れたことによって急転します。

侯景の乱は梁にどのような影響を与えたのでしょうか。

侯景の乱が起きた原因と経過、与えた影響を紹介します。

スポンサーリンク

侯景の乱が起きた原因

懐朔鎮出身の軍人・侯景が、東魏で権力を拡大していた高歓とその子ども・高澄によって排除されることを恐れたのが始まりです。

侯景は南朝・梁に帰順し、身の安全を確保しました。

ところが、梁は東魏と和平を結ぶこととなり、東魏と梁の2国から命を狙われるのではないかと警戒した侯景は挙兵することにしました。

侯景の乱の経過

侯景は548年に挙兵し、反乱は552年に終結しました。
4年にわたる侯景の乱の経過をみていきましょう。

侯景、東魏と梁の板挟みにあう

侯景は北魏の爾朱栄に仕えていましたが、534年、北魏が東魏と西魏に分裂すると、東魏の高歓のもとで河南大行台として河南の軍事を任されました。

高歓は北魏の第6代皇帝・孝文帝(拓跋宏)の孫・元善見を擁立して、東魏の初代皇帝・孝静帝として即位させ、東魏を建国しました。

おゆう
おゆう

元善見は524年生まれで、即位当時はわずか10歳。

実権は高歓が握り、侯景は司徒・南道行台となって、10万人もの兵を任されました。

547年、病を患い、死期が近いと悟った高歓は、子ども・高澄に「侯景は高澄を任用しないだろう」と言い残して亡くなりました。

高歓の最期の言葉を知った侯景は、高澄に排除されることを恐れて、潁州(安徽省阜陽市)刺史・司馬世雲と共に東魏を離れることにしました。

高澄は司空・韓軌に侯景を捕らえるように命じ、侯景は西魏に助けを求めました。

西魏の初代皇帝・文帝(元宝炬)は尚書左僕射・王思政に侯景を助けるよう命じ、王思政は1万人もの兵を率いて侯景のもとへ向かいました。

おゆう
おゆう

ところが、王思政軍が到着する前に、侯景は梁の初代皇帝・武帝(蕭衍)に帰順を申し出ました。

東魏で河南の軍事を任されている侯景を受け入れれば、梁は戦わずして河南を手に入れることができます。
武帝は侯景を河南王に封じて、大将軍・使持節・都督河南南北諸軍事・大行台に任命しました。

侯景は妻子を東魏に残していたため、妻と子ども・侯和は謀反の罪で処刑されてしまいました。

侯景が梁に帰順したと知った高澄は侯景を討つべく進軍し、河南を取り戻しました。
そして、これ以上梁と戦いたくなかったため、高澄は和議を結びたいと申し出ました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

梁が東魏と和議を結べば、東魏は梁に侯景の引き渡しを求め、梁は東魏の要求に応じるかもしれません。

身の危険を感じた侯景は東魏と和議を結ばないように進言しましたが、梁も東魏と戦いたくなかったため、梁と東魏は和議を結ぶことになりました。

侯景は梁と東魏に挟まれ、窮地に立たされることとなりました。

侯景、蕭正徳と手を結んで挙兵する

窮地に立たされた侯景は武帝に不満を抱いていた蕭正徳に目をつけました。

蕭正徳は武帝の弟・蕭宏の3男です。

548年10月22日、侯景はわずか1000人の兵を率いて長江を渡り、都・建康を襲撃しました。

おゆう
おゆう

建康で戦乱が勃発したのは、武帝が斉の第7代皇帝・和帝(蕭宝融)を擁立して進軍した498年以来。

侯景が挙兵すると思っていなかったため、平和慣れしていた梁軍は戦闘態勢を整えておらず、都は混乱に陥りました。

梁の建国に貢献した軍官は亡くなるか地方に赴任していたため、建康に残っている軍は素人集団でした。
中には馬に乗ったことのない兵もいて、馬が少し暴れるだけでも震え上がりました。

侯景は西方の石頭城、北方の白下城、南方の朱雀航を攻め、市街地に突入しました。
挙兵時の兵はわずか1000人でしたが、侯景が建康を攻撃するにつれて、梁に不満を抱いていた民が呼応し、挙兵から3日後には建康城を四方から囲めるほどにまで膨れ上がっていました。

坊っちゃん
坊っちゃん

11月に入ると、武帝の第6皇子・蕭綸(しょうりん)が3万人の兵を率いて建康に到着。

侯景軍の食糧は減り、蕭綸軍が到着したと知ると狼狽しましたが、大雪が降り、蕭綸軍の足並みが揃わず、侯景軍は勝利しました。

侯景に降伏する梁軍が続出する

蕭綸軍に勝利したものの、侯景軍は建康城をなかなか陥落できずにいました。

おゆう
おゆう

というのも、冠軍将軍・羊侃(ようかん)が防衛戦の指揮を取って、建康城を守っていたからです。

そこで、侯景は羊侃の長男・羊鷟(ようさく)を捕らえて、羊侃に降伏するよう要求しました。
ところが、降伏するどころか、羊侃は「子どもの命を捧げても、陛下に報いきれない」と言って、羊鷟を目がけて自ら矢を放ちました。

549年12月、羊侃はストレスと過労がたまり、病を患って亡くなってしまいました。

羊侃が亡くなると、建康城内は混乱に陥り、侯景は混乱に乗じて、登城車や火車などの兵器を次々と投入しました、
また、建康の北にある玄武湖から水を城内に流し込み、水攻めを行いました。

おゆう
おゆう

この時、梁の皇子間で猜疑心が芽生え始めていて、武帝や皇子の言うことを信じられない兵は侯景に降伏したり、スパイとなって梁軍の情報を流したりしました。

そのため、梁から建康に官軍が到着することはなく、建康に住む民は梁に失望してしまいました。

侯景は建康城をなかなか陥落できずにいましたが、城内の食糧はゼロに等しく、兵と民合わせて13万を超えていた城内の人口は3000人までに減少していました。

侯景と梁、偽の和議を結ぶ

一方、侯景軍の食糧もあと一ヶ月しかもたない程度にまで減ってしまいました。
一ヶ月以内に建康城を陥落することは難しいと判断した侯景は、武帝に和議を結ぶことを提案しました。

坊っちゃん
坊っちゃん

もちろん、和議は罠。

和議を結んで食糧を確保し、兵器を補修したり、軍を休めたりすることが目的で、侯景は戦闘態勢が整えば再び建康を攻撃するつもりでした。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

侯景から和議をもちかけられた武帝は、侯景の本当の目的を見破りました。

でも、武帝の第3皇子である皇太子・蕭綱は高齢の武帝を心配し、ひとまず和議を結んでから、後のことを考えるように言いました。

蕭綱の言うとおり、武帝は侯景と和議を結ぶことにしました、

侯景、建康を陥落する

549年2月、侯景と和議を結んだ武帝は、侯景軍を囲んでいた軍を撤退させました。

おゆう
おゆう

ところが、侯景軍は建康城を包囲したままです。

武帝は包囲を解除するように何度も督促しましたが、侯景は包囲を解きませんでした。

侯景が和議を破ったと知っても、武帝の皇子は建康に駆けつけず、見て見ぬふりをしました。
武帝の皇子が兵を率いて救援に駆けつけないと分かった侯景は、昼夜を問わず建康城を攻撃し、3月11日、ついに建康城を陥落しました。

侯景は武帝を幽閉し、食事を与えず、空腹のまま武帝は86歳で崩御しました。

武帝に侯景と和議を結ぶように言った皇太子・蕭綱は第2代皇帝・簡文帝として即位しましたが、侯景の監視下におかれ、自由に身動きを取ることはできませんでした。

侯景が三呉を制圧する

都はもちろん、地方にも武帝を慕っていた官吏は多くいましたが、侯景が擁立した簡文帝を支持する官吏は少なく、侯景は早速頭を抱えることとなりました。

そこで、侯景は三呉を制圧することにしました。

三呉は梁の経済的地盤で、侯景が制圧したことによって、壊滅的な被害を受けました。

王僧弁が侯景軍を破る

武帝の第7皇子・蕭繹(しょうえき)は鎮西将軍・荊州刺史を務めていて、侯景が挙兵する前から江陵(湖北省荊州市)に赴任していました。

蕭繹は侯景の討伐に向かいませんでしたが、侯景が擁立した簡文帝の即位を認めず、江陵で自ら政権を運営しました。
簡文帝を支持しない官吏は建康から逃げ出し、蕭繹のもとへ集まりました。

侯景によって壊滅的な被害を受けた三呉からも官吏や避難民が集まり、蕭繹は勢力を拡大していきました。

蕭繹の勢力を抑えるべく、侯景は兵を率いて江陵に向かい、侯景と蕭繹は巴陵(湖南省岳陽市)で戦うことになりました。

蕭繹は領軍将軍・王僧弁に侯景を討伐するよう命じました。
王僧弁は水軍を率いて、侯景軍を破り、建康に撤退する侯景軍を追いました。

王僧弁と陳覇先が蕭方智を擁立する

建康に撤退する侯景軍を追った王僧弁は、湓口(ほんこう。江西省九江市)で侯景討伐のために北上していた陳覇先と出会いました。

侯景討伐という共通の目的をもった二人は協力することになり、二人は兵を率いて建康に向かいました。
建康に帰った侯景は簡文帝を殺して、自ら即位し、王僧弁と陳覇先を迎え討ちました。

ところが、二人が率いていた兵は精鋭部隊で、敗北を恐れた侯景は子どもを連れて東方に逃げました。

おゆう
おゆう

逃走する侯景にとって、最も邪魔だったのは子どもでした。

2人の子どもを長江に投げ入れて、数十人の兵と一緒に山東を目指しました。

でも、自らの手で子どもを殺した侯景を、部下は信用できなくなってしまいました。
侯景に仕えていた羊侃の三男・羊鵾は侯景を殺し、552年4月、侯景の死をもって、反乱は終結しました。

侯景の乱が与えた影響

552年4月に終結した侯景の乱。
548年から552年までの4年間にわたる反乱は、梁に大きな影響を与えました。

元帝は江陵で即位した

王僧弁の仕えていた蕭繹は、552年に第3代皇帝・元帝として即位することとなりました。

おゆう
おゆう

でも、即位は都・建康ではなく、江陵で行われました。

即位の儀式を行えないほど、建康が荒れ果てていたということですね。

西魏に四川を奪われた

侯景の乱が終結しても、皇室内の争いは終わらず、元帝は侯景を討伐しようとしていた弟・蕭紀と皇帝の座を争うこととなりました。

元帝は蕭紀に勝利したものの、二人が戦っている間に、西魏は四川を奪ってしまいました。

元帝は甥・蕭詧に殺された

元帝が争わなければいけなかったのは蕭紀だけではありません。
蕭紀を支持していた武帝の第1皇子・蕭統の3男・蕭詧(しょうさつ)とも戦わなければいけませんでした。

蕭詧は西魏に帰順し、554年、西魏が江陵を攻撃したのに乗じて、元帝を殺しました。

老荘を好み、多くの著述を残した元帝の14万巻もの蔵書は全て焼却されてしまいました。

江陵の民は西魏の奴隷になった

元帝が即位した江陵は、西魏に帰順した蕭詧が元帝を殺したことによって、西魏の手に落ち、民は西魏の奴隷として都・長安まで歩くことになりました。

おゆう
おゆう

江陵から長安までの距離は700km。

700kmもの距離を歩いて移動するなんて不可能です。
700kmの移動に耐えられないと判断された子どもや老人は皆殺されてしまいました。

まとめ

侯景の乱が起きた原因と経過、与えた影響を紹介しました。

東魏と梁の板挟みにあい、行き場を失った侯景は、梁の皇族と手を結んで兵力を拡大したり、偽の和議を結んで食糧を手に入れたりして、都・建康を陥落しました。
侯景の乱によって国力を失い、皇族間の争いが激化した梁は、西魏に四川の地と江陵の民を奪われてしまいました。

皇帝としては珍しく47年間も在位した武帝。
晩年に侯景が挙兵し、反乱の終結を見ることなく崩御した武帝は無念だったでしょうね。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ

タイトルとURLをコピーしました