楊貴妃とのロマンスでも有名な唐の第9代皇帝・玄宗(李隆基)。
楊貴妃を側室に迎える前、玄宗が武恵妃という女性を寵愛していたことをご存知でしょうか。
玄宗が楊貴妃の前に愛した武恵妃の生涯、則天武后との関係を紹介します。
玄宗が楊貴妃の前に愛した武恵妃ってどんな人?
武恵妃は絳州(山西省運城市)刺史・武攸止と楊氏の間に第1子として誕生しました。
名前は伝わっていないので、こちらでは、恵妃に冊立されるまで武恵妃を武氏と呼びます。
正確な生まれ年は判っていませんが、690年代に生まれたといわれています。
武攸止が亡くなった後、武氏は後宮に入り、李隆基が唐の第9代皇帝・玄宗として即位すると、寵愛を受けて、玄宗の第8皇子・李一、第11皇子・李敏、第9皇女・上仙公主を出産しました。
ところが、3人とも幼くして亡くなってしまいます。
その後、武氏は第13皇子・李瑁を出産。
「李瑁に万が一のことがあったら、武氏がまた悲しんでしまう」と考えた玄宗は、宮廷の外で暮らす兄・李成器に李瑁を預け、育てるようにお願いしました。
李瑁はすくすく育ち、武氏は第15皇子・李琦、第21皇女・咸宜公主、第25皇女・太華公主を出産しました。
そして、玄宗の寵愛を独占していた武氏に最大の転機が訪れます。
724年、玄宗の正妻・王皇后が子どもを授かるまじないをしていたことが発覚したんです。
玄宗の側室は次々と子どもを授かったものの、王皇后は子どもを授かりませんでした。
当時、宮中でまじないを行うことは禁止されていたため、王皇后は廃されました。
側室の中で最も寵愛を受けていた武氏は、自分が皇后に冊立されるものだと思っていました。
玄宗も武氏を皇后に冊立しようと考えていましたが、御史・潘好礼が反対。
武氏は皇后に冊立されず、恵妃に冊立されました。
皇后に冊立されなかったものの、玄宗の寵愛により、皇后と同等の待遇を受けることとなった武恵妃。
ところが、武恵妃は皇后に冊立されなかったことに不満を抱き、皇后に冊立されるべく、李瑁を皇太子に冊立するように働きかけました。
宰相・李林甫は武恵妃に協力し、皇太子に冊立されていた第2皇子・李瑛と第5皇子・李瑶、第6皇子・李琬を庶民に落とし、自害に追い込みました。
ところが、738年、武恵妃は病を患い、李瑁が皇太子に冊立される前に亡くなりました。
則天武后との関係は?
武恵妃の名字を見て、ピンときた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
武恵妃の父・武攸止は則天武后の従兄弟・武懐運の子どもです。
つまり、武恵妃は則天武后の従姪にあたります。
一方、玄宗は則天武后と唐の第3代皇帝・高宗(李治)の子ども・睿宗(李旦)の子どもで、則天武后の孫にあたります。
則天武后の孫・玄宗は則天武后の従姪・武恵妃に惚れたんですね。
いとこ同士で結婚できるので、玄宗が武恵妃を寵愛しても全く問題ありませんが、武恵妃の祖父・武懐運が夫・玄宗の祖母・則天武后に殺されていると考えると、武恵妃の心境は複雑だったのではないでしょうか。
現在では、優れた政治手腕など、則天武后の評価すべき点が取り上げられるようになりましたが、当時、則天武后は唐を建国した李氏から国を奪ったとして、悪女の評価を受けていました。
悪女の従姪にあたる武恵妃を皇后に冊立すると、次は武恵妃が李氏から国を奪うと考えたんですね。
まとめ
玄宗が楊貴妃の前に愛した武恵妃の生涯、則天武后との関係を紹介しました。
武恵妃は玄宗から最も寵愛受けていたものの、正妻・王皇后が廃された後、皇后に冊立されることはありませんでした。
武恵妃は則天武后の従姪。
皇后の座、皇太子の座にこだわったのは、則天武后譲りだったのかもしれませんね。
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