唐の第2代皇帝・太宗(李世民)の側室・徐賢妃。
徐賢妃は唐代最初の女流詩人といわれるほど、文才が優れていました。
太宗(李世民)の側室・徐賢妃の生涯と唐の第3代皇帝・高宗(李治)の側室である妹・徐婕妤を紹介します。
太宗の側室・徐賢妃ってどんな人?
徐賢妃は627年生まれで、沂州(山東省臨沂市)・果州(四川省南充市)刺史を務める徐孝徳と姜化の間に誕生しました。
名前は徐恵といいます。
家柄の高い両親のもとに生まれた徐賢妃は読書が大好き。
生後5ヶ月で話し始め、4歳で「論語」、「毛詩」を暗唱するなど、幼い頃から才女でした。
後宮に入る
8歳になると、文を書き始めます。
8歳であれば、文字や簡単な文を書けるのは当然かもしれません。
でも、徐賢妃の書く文は自分の気持ちを自由自在に表現したもの。
徐賢妃の文才と優れた感性に驚いた徐孝徳は、徐賢妃の作品を街で披露しました。
親バカ。
徐賢妃の作品は大勢の胸を打ち、すぐに話題になりました。
やがて、作品と素晴らしい文才をもつ女性がいるとの噂が朝廷まで広がり、作品を目にした唐の第2代皇帝・太宗(李世民)は徐賢妃を後宮に入れて、才人(正五品)としました。
後宮に入った後も、徐賢妃は文を書き続け、文才が更に向上。
また、文を書くスピードが速かったため、太宗は徐賢妃をますます気に入り、徐賢妃を婕妤(正三品)とし、徐孝徳を礼部員外郎に任命しました。
その後、徐賢妃を充容(正二品)としました。
太宗に諫言する
648年、唐の周辺民族を征討しようと、太宗は軍を東西南北の四方に派遣しました。
また、宮廷を建築したり、修築したりしたため、国の財政は逼迫。
そのしわ寄せは身分の低い農民にいきました。
太宗のそばで事態を冷静に見ていた徐賢妃は、遠征をやめるよう、次のように上奏しました。
農民が収穫した作物は、戦場で使われるだけで、戦闘訓練した兵は出征することなく(食糧不足で)亡くなっていきます。
領土を拡げることが国を安定させる方法だとは思えません。
心優しい徐賢妃の美しい文に心を動かされた太宗は、徐賢妃の意見に賛同しました。
太宗の後を追って24歳で亡くなる
649年、太宗が51歳で崩御しました。
太宗を心から慕っていた徐賢妃は、太宗を失った悲しみから病を患いました。
病を早く治すよう、薬が処方されましたが、「先帝(太宗)は私に良くしてくださりました。私が願うのは、先帝のもとへ少しでも早くいくことです」と言って、薬を飲みませんでした。
太宗が崩御した翌年の650年、徐賢妃は太宗の後を追うように、24歳の若さでこの世を去りました。
徐賢妃と同じく、太宗の側室として後宮入りした則天武后。
徐賢妃は則天武后より先に後宮入りしましたが、二人は3歳差で、年齢が近いことから、徐賢妃は則天武后のドラマや小説によく登場します。
ドラマや小説で描かれる徐賢妃の人物像はさまざま。
ファン・ビンビン主演の「武則天 -The Empress-」では、則天武后の親友、そして、ライバルとして、作家・山颯の「女帝 わが名は則天武后」では、則天武后の憧れの女性として描かれています。
・身体が弱い
・心が繊細
・でも、自分、そして、意見を(文で)アピールできる芯の強さをもっている
の3つ。
皆さんは、徐賢妃に対して、どのようなイメージを抱いていらっしゃるでしょうか。
妹は高宗の側室!
徐賢妃には妹・徐婕妤がいました。
残念ながら、生まれた年や亡くなった年などは不明で、徐賢妃に比べて記録が残っていませんが、徐賢妃に似て、文才が優れていました。
その文才は、前漢の第12代皇帝・成帝(劉驁)の側室・班婕妤(正三品)と比較されるほどでした。
高宗は徐婕妤を側室に迎え、657年より前に、婕妤(正三品)としました。
まとめ
太宗(李世民)の側室・徐賢妃の生涯と唐の第3代皇帝・高宗(李治)の側室である妹・徐婕妤を紹介しました。
幼い頃から優れた文才を備えていた徐賢妃は太宗に気に入られ、徐賢妃もまた太宗を心から慕いました。
徐賢妃と太宗がもっと長生きしていたら、徐賢妃は則天武后を脅かす存在となっていたのではないでしょうか。
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