北魏の第4代皇帝・文成帝は、僧祇戸、仏図戸を採用して、仏教を奨励し、世界史の教科書や資料集に欠かせない雲崗石窟を造営しました。
文成帝(拓跋濬)の生涯、採用した僧祇戸、仏図戸を紹介します。
文成帝(拓跋濬)ってどんな人?
文成帝は440年生まれで、父・拓跋晃と母・閭氏の間に第1皇子として誕生しました。
名前は拓跋濬(たくばつえい)といいます。
幼い頃から聡明で、太武帝に気に入られた拓跋濬は皇太孫となりました。
即位する
451年から453年にかけて、拓跋晃、祖父・太武帝、叔父・拓跋翰、拓跋余が立て続けに宗愛によって殺されました。
尚書・陸麗、羽林郎中・劉尼、殿中尚書・源賀は宗愛を処刑したうえで、拓跋濬を擁立しました。
拓跋濬は北魏の第4代皇帝・文成帝として即位すると、太武帝の度重なる征討により疲弊していた臣下、民をいたわりました。
また、開墾に注力し、作物の生産力の向上を図りました。
禁酒令を制定する
文成帝が疲弊していた臣下をいたわったせいか、お酒を飲んで酔っ払った状態で仕事をする官吏が続出しました。
朝廷内にお酒の匂いが漂い、気持ち悪くなった文成帝は禁酒令を制定。
お酒を飲んだ者、お酒を販売した者を死刑に処しました。
仏教を奨励する
太武帝は廃仏政策を実施し、仏教徒を厳しく弾圧しましたが、文成帝は一転して仏教を奨励。
仏教興隆の詔勅を出しました。
460年、沙門の曇曜に命じて、雲崗石窟を造営しました。
雲崗石窟は川によって削られた崖に東西1kmにわたって造営されました。
465年、病を患い、文成帝は26歳の若さで崩御しました。
採用した僧祇戸、仏図戸とは?
僧祇戸、仏図戸は雲崗石窟を造営するのに必要な費用、人員を確保するために採用された制度です。
僧祇戸とは?
北魏では征討した他民族を「平斉戸」と呼び、大同(山西省大同市)に設置した「平斉郡」に強制移住させていました。
慣れない土地で暮らすことになった平斉戸は不満を抱き、度々反発。
北魏は平斉郡の統治に苦労していました。
そこで、曇曜は自らが務める昭玄曹の部下として、平斉戸を受け入れました。
平斉郡を離れた平斉戸は「僧祇戸」と呼ばれ、毎年60石の粟を納付するよう義務付けられました。
僧祇戸が収めた粟は「僧祇粟」と呼ばれ、凶作の年のために備蓄されました。
また、凶作の年でなくても、民が食糧に困ると、僧祇粟を貸し付けました。
そのため、僧祇粟を貸し付けても、北魏が損をすることはありませんでした。
豊作の年が続き、僧祇粟が余ると、仏教事業で使用しました。
仏図戸とは?
重罪を犯した民のうち奴婢となった者は、仏教寺院で掃除などの雑務に携わっていました。
曇曜は寺院で働く奴婢を「仏図戸」と呼んで、雲崗石窟の造営にも携わらせることにしました。
ある時は寺院を掃除し、ある時は雲崗石窟を造営した仏図戸は、仏教徒として仏に奉仕しているという充足感を得られ、精神が安定。
雲崗石窟の造営にますます励むようになりました。
まとめ
文成帝(拓跋濬)の生涯、採用した僧祇戸、仏図戸を紹介しました。
文成帝は作物の生産力の向上に努めたり、仏教を奨励したりして、国内の安定化を図りました。
また、僧祇戸、仏図戸を採用して、北魏に移り住んだ民や奴婢の心を労わりました。
26歳の若さで崩御したのが勿体ないですね。
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