「南朝・梁の学問は日本に大きな影響を与えた」と評価されるほど、梁は学問の盛んな国でした。
その一方で、儒学が発展することはありませんでした。
梁で学問が盛んになった理由と儒学が発展しなかった理由を紹介します。
梁で学問が盛んになった理由
梁で学問が盛んになった理由は大きく分けて3つあります。
五館を設置した
即位後、武帝は貴族の子弟を対象とした国子学の他、五館を設置しました。
五館では、儒教の易・書・詩・礼・春秋の5種類の経典に通じた博士が講義にあたりました。
そして、儒学者を育成するために、五館に通う数百人の学生に生活費を支給しました。
また、五館で試験を行って、官吏を登用するというシステムを設置しました。
紹介したように、五館は寒門の子弟を対象とした学校。
身分がどんなに低い者であっても、成績が優秀で、才能があれば、官吏に採用されました。
科挙の前身ですね。
身分を問わない学問の奨励により、地方から優秀な学生が集まり梁の学問は盛んになりました。
武帝(蕭衍)自身が学者肌だった
487年、斉の第2代皇帝・武帝(蕭賾)の第2皇子・蕭子良は鶏籠山の西に自宅を構え、文人貴族を集めました。
文人貴族の中でも、蕭衍、沈約、謝朓(しゃちょう)、王融、蕭琛(しょうちん)、范雲、任昉(じんぼう)、陸倕(りくすい)の8人は「竟陵八友」と呼ばれ、文章談論の会合を度々開いていました。
464年生まれの武帝は23歳で文人貴族の仲間入りを果たしていたことになりますね。
また、武帝は儒学、老荘の思想、仏教学に通じていて、深い学識をもっていました。
姚方興が献上した尚書舜典を読んだ武帝は、文字が足りないため文と文の繋がりが不自然だとして、姚方興が偽作したことを見抜きました。
武帝の学識の深さを証明するものはありませんが、このようなエピソードから武帝が普段から書物を読み込んでいたことが分かりますね。
蕭統が「文選」を編纂した
武帝の第1皇子・蕭統は3歳で論語と孝経を読み、5歳で五経を読み終えたという文学の才能に溢れた皇太子。
3万巻にも及ぶ蔵書を自ら保有し、優れた文人を集めて、周から梁に至るまでの1000年間の詩文の中から、特に優れた詩文をまとめた「文選」を編纂しました。
また、「文選」は日本にも伝わり、聖徳太子の十七条憲法や「万葉集」にも影響を与えました。
後世、そして、中国国外に影響を与えた「文選」の誕生が梁の学問発展に貢献したことは言うまでもないですね。
儒学が発展しなかった理由
五館を設置して、儒教の5種類の経典に通じた博士に講義を行わせ、また、五館に通う数百人の学生に生活費を支給してまで儒学者を育成しようとした武帝。
でも、武帝の政策に反して、梁では儒学が発展しませんでした。
梁で儒学が発展しなかった理由は2つあります。
博士に教えるスキルがなかった
「成績のいい人に勉強を教えてもらったけれども、何を言っているのか正直分からなかった」という声を聞いたことがありませんか?
成績がいい、勉強ができるからといって、教え方が上手だとは限りません。
五館に出入りしていた博士は専門的な知識をもっていたものの、教えるスキルがなく、教養にまで高めることができませんでした。
博士は深さを求めた
大学には基礎教育と専門教育がありますよね。
基礎教育が設けられている理由は、専門分野を学ぶにあたって必要なベースの知識を得たり、思考力を身につけたりするためです。
ところが、五館に出入りしていた博士は専門的な知識ばかりもっていて、広く浅くといった基礎的な知識をもっていませんでした。
基礎的な知識を得ることなく、突然専門的な講義を受けるはめになった学生は、儒学に興味をもてなかったかもしれませんね。
まとめ
梁で学問が盛んになった理由と儒学が発展しなかった理由を紹介しました。
学者肌だった梁の初代皇帝・武帝(蕭衍)が五館を設置したり、武帝の皇子・蕭統が「文選」を編纂したりしたことにより、梁の学問は盛んになりました。
一方、儒教に通じた博士に教えるスキルがなく、儒学は発展しませんでした。
1500年以上前に存在した中国王朝が日本文化に大きな影響を与えていたなんて、とてもロマンチックですね。
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