桶狭間の戦い、姉川の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、そして、関ヶ原の戦いなど、数々の戦いを経て、江戸幕府を開いた徳川家康。
そんな徳川家康は何歳で初陣を迎えたのでしょうか。
また、初陣はどのような戦いだったのでしょうか。
徳川家康が初陣を迎えた年齢やその内容、一緒に戦った松平重吉について紹介します。
徳川家康の初陣は何歳?
駿河・遠江の今川家の人質となった天文18年(1549年)から9年が経った永禄元年(1558年)、今川義元に命じられて、徳川家康は寺部城(愛知県豊田市)の城主・鈴木重辰(日向守)を討ちました。
この時、徳川家康は17歳。
つまり、徳川家康の初陣は17歳となります。
どんな戦いだった?
寺部城を拠点としていた寺部鈴木氏は三河に進出した今川義元に仕え、今川氏と従属関係にありました。
ところが、織田信長が力をつけて頭角を現すと、今川氏を裏切って、広瀬城主・三宅高清を通じて、織田氏と連絡を取り、織田氏に仕えました。
寺部鈴木氏の裏切りを許せなかった今川義元は、寺部城主・鈴木重辰を討つよう、徳川家康に命じました。
実は、徳川家康の出身である松平氏と寺部鈴木氏は昔から因縁がありました。
寺部城を築き、城主となった鈴木重時は上野城の阿部孫次郎や挙母城(金谷城)の中条出羽守、伊保城の三宅加賀守や八草城の那須宗左衛門と手を組んで、明応2年(1493年)、徳川家康の高祖父の父(ひいひいひいおじいちゃん)・松平親忠を攻撃しました。
この鈴木重時と松平親忠の戦いを井田野の戦いといいます。
天文2年(1533年)には、鈴木重教と三宅氏が手を組んで、徳川家康の祖父・松平清康と戦うも破れました。
今川家の人質として生きてきた徳川家康は、戦の準備を整えるという目的で、生まれ育った岡崎城へ一時的に戻ることを許されました。
そして、岡崎城から兵を率いて出陣。
これまで今川氏のもとで戦ってきた岡崎城の兵は、「ついに、殿(徳川家康)のもとで戦える」と喜びました。
徳川家康は父・松平広忠が再興した山中八幡宮(愛知県岡崎市)に参拝し、戦勝を祈願した後、寺部城に一気に攻め入りました。
そして、鈴木重辰が不意を突かれて動揺しているうちに、城に火を放ちました。
その後、近くにあった広瀬城や挙母(ころも)城、梅坪城、伊保城を攻撃しました。
今川義元から命じられていないのに、何故、寺部城の近くにあった城をわざわざ攻撃したのかというと、この4つの城の城主は皆、寺部鈴木氏と親交があり、寺部城がピンチに陥ったと知ると、寺部鈴木氏を助けに進軍する可能性があったからです。
先を見据えて、徳川家康は4つの城を攻撃し、挟み撃ちにあうリスクを回避したんですね。
徳川家康の活躍を称え、今川義元は大切にしていた太刀を徳川家康にプレゼントしました。
また、旧領のうち山中300貫の地を返還しました。
一緒に戦った松平重吉とは?
17歳の徳川家康は寺部城を陥落させ、鈴木重辰を討ち、今川義元から与えられた任務を見事に遂行しました。
でも、徳川家康が任務を遂行できたのは、徳川家康一人の力ではありません。
17歳の徳川家康を支えたのは、遠い親戚にあたる松平重吉でした。
松平重吉の祖父・松平光親と徳川家康の高祖父の父・松平親忠が兄弟でした。
松平重吉は明応7年(1498年)生まれで、徳川家康より45歳も年上でした。
徳川家康が今川義元から鈴木重辰を討つよう命じられた時、松平重吉は既に60歳を過ぎていて、戦の大ベテランでした。
まとめ
徳川家康が初陣を迎えた年齢やその内容、一緒に戦った松平重吉について紹介しました。
今川義元から鈴木重辰を討つよう命じられ、徳川家康は17歳で初陣を迎えました。
今川義元が満足するほどの功績をあげた徳川家康の活躍の裏には、松平重吉をはじめ、岡崎城の兵のサポートがありました。
徳川家康が幼くして親と生き別れ、死別となり、また、今川家の人質となりましたが、家臣には恵まれていたのかもしれませんね。
大河ドラマ「どうする家康」を見るなら、こちらのDVDがオススメです。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!