徳川家康の第一の重臣とされる酒井忠次。
武功をあげ、軍事にも長けていた酒井忠次には、さまざまな逸話があります。
意外な一面が見られる酒井忠次の5つの逸話を紹介します。
正月に門松の竹を切る風習をつくった
元亀4年(1573年)正月、敵対していた武田家から手紙が届きました。
松を松平家、竹を武田家に例えて、「松平家(徳川家)は間もなく滅亡するだろう。武田家は繁栄するだろう」と予言したんです。
酒井忠次は「松平家は枯れず、武田家は首を討たれる」と予言したんです。

ただ一人冷静に読み、皆の怒りを鎮める文に書き換えるという頭の回転の速さ。
徳川家康から厚く信頼されていたのも納得できます。
酒井忠次のこの行動は、正月に門松の竹を斜めに切る風習の元となりました。
榊原康政を引き下がらせた
武田家を滅亡に追い込んだ徳川家康は、井伊家の再興を図る井伊直政に旧武田家臣を与えました。






すると、榊原康政は「井伊直政と刺し違えても、旧武田家臣を斬る」と言い出しました。
これに対し、酒井忠次は「旧武田家臣を井伊直政に与えたのは殿(徳川家康)だ。怒りに任せて、旧武田家臣を斬ることは、殿に対する裏切りだ」と諫めました。
榊原康政は酒井忠次の言葉をもっともだとして引き下がりました。
徳川信康を切腹に追い込んだ
長篠の戦いで手柄をあげた4年後の天正7年(1579年)、徳川家康の耳に信じられないニュースが飛び込みました。






徳川家康の長男・徳川信康と正妻・築山殿が徳川家、織田家を裏切り、武田勝頼と内通していたというんです。
徳川信康と築山殿の行動を織田信長に密告したのは、なんと、徳川信康の正妻であり、織田信長の長女である徳姫。
徳姫の密告をそのまま信じるべきかどうか悩んだ織田信長は、以前から親交のある酒井忠次を安土城に呼び出し、真実を問いただしました。
織田信長は酒井忠次が弁明することを期待していたのかもしれません。
また、徳川家康は酒井忠次に一縷の望みをかけていたと思います。
でも、酒井忠次が織田信長の疑いを払拭できるような弁明をすることはありませんでした。
築山殿は殺され、また、徳川信康は自害するよう命じられてこの世を去りました。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉によって、関東に封じられた徳川家康は知行割を行いました。
酒井忠次は徳川家康の幼少期から仕えてきた家臣。
酒井忠次は徳川家臣の中でも特に多くの石高を与えられると期待していました。


ところが、榊原康政、本多忠勝、井伊直政が10万石以上を与えられている中、酒井忠次は3万石しか与えられませんでした。
酒井忠次は徳川家康に抗議し、他の家臣と並ぶ石高を要求すると、徳川家康は「私の息子(徳川信康)を救えなかったくせに」と言いました。
酒井忠次は申し出をすぐに取り下げました。
海老すくい
徳川家臣の重鎮だった酒井忠次。
戦で手柄をあげ、榊原康政を黙らせた酒井忠次に対して、強い、カッコイイ、シブいといった印象を抱いている方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。






じつは、酒井忠次にはひょうきんな一面もありました。
宴会では「海老すくい」という一発芸を披露し、その場を盛り上げました。
残念ながら「海老すくい」という芸がどのようなものだったのかという詳細は判っていませんが、ドジョウすくいのような踊りだったのではないかといわれています。
歌舞伎の演目となった
元亀3年(1573年)に勃発した三方ヶ原の戦い。
多くの家臣に守られて、徳川家康はなんとか浜松城に逃げ帰ります。
この時、徳川家康は後を追って逃げ帰る家臣が入城できるよう、門を開けていました。






でも、門を開けていたら、戦っていた武田軍も入城してしまうかもしれません。


家臣を犠牲にして退却したのに、武田軍を入城させては、亡くなった家臣もうかばれません。
すると、門の前で大きな火をあげたうえで、城内にいた酒井忠次は太鼓を打ち鳴らしました。
浜松城の近くまでやって来た武田軍は何かが起こるのではないかと警戒して退却。
この逸話は「酒井の太鼓」という演目で歌舞伎になっています。
まとめ
意外な一面が見られる酒井忠次の5つの逸話を紹介しました。
普段は強面な上司でも、別の顔を見ると親しみが湧くもの。
ひょうきんな一面をもち合わせていた酒井忠次は部下にも慕われていたのではないでしょうか。
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