小牧・長久手の戦いで織田信雄が徳川家康に無断で豊臣秀吉と和睦した理由

天正12年(1584年)3月に起きた小牧・長久手の戦い。
豊臣秀吉に対抗するべく、織田信雄は徳川家康と同盟を結びました。

ところが、徳川家康に相談することなく、織田信雄は豊臣秀吉と和睦します。

小牧・長久手の戦い織田信雄徳川家康無断豊臣秀吉和睦した3つの理由を紹介します。

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織田信雄の領地が奪われたから

天正10年(1582年)6月に行われた清洲会議。

清洲会議では、
① 跡継ぎの決定
② 織田家の領地の再分配
が行われ、織田信雄は尾張国、伊賀国、南伊勢の約100万石を相続しました。

織田信長の跡継ぎには、孫・三法丸(織田秀信)が選ばれました。

天正11年(1583年)4月、豊臣秀吉と柴田勝家の間で賤ヶ岳の戦いが勃発。

織田信雄は豊臣軍に属し、北伊勢を加増されました。

織田信雄は尾張国、伊賀国、伊勢国を支配することになりました。

尾張国を奪われたから

ところが、小牧・長久手の戦いが始まってすぐ、
① 織田信雄に味方するはずだった大垣城主・池田恒興
② 池田恒興の長男・池田元助
が豊臣秀吉に寝返ります。

元犬山城主・池田恒興は城の構造をよく理解しています。
池田恒興は犬山城をあっという間に攻略。

小牧・長久手の戦いが終わるまで、犬山城は豊臣軍の前線基地となりました。

伊勢国を奪われたから

豊臣軍に属していた滝川一益の調略により、志摩国の九鬼嘉隆が豊臣秀吉に寝返ります。

志摩国は伊勢国の東に位置します。

九鬼水軍を率いていた九鬼嘉隆は、織田信雄の支配する松ヶ島城を海上封鎖しました。

更に、三河国沿岸を襲撃し、伊勢国と三河国の連携を断ちます。
また、豊臣軍によって、伊勢国の戸木城を攻略されてしまいました。

三河国では、徳川軍が勝利を重ねていました。

でも、尾張国、伊勢国では、織田信雄が敗北を重ね、領地を次々と奪われていました。
領地が奪われると、収入が減り、兵糧・武器不足に陥ってしまいます。

これ以上戦い続けることは難しいと判断した織田信雄は和睦に応じました。

織田家臣が混乱していたから

豊臣秀吉に寝返り、犬山城を攻略した池田恒興。
犬山城攻略から1ヶ月も経たないうちに、池田恒興はなんと討死します。

池田恒興の豊臣秀吉への寝返り、討死は、織田家臣を激震させました。
織田家臣が混乱している中、豊臣秀吉と戦うのは不利です。

被害を拡大させる前に、織田信雄は和睦に応じました。

徳川家康に相談する機会がなかったから

織田信雄と豊臣秀吉の和睦は、
① 滝川一益(豊臣側)
② 滝川雄利(織田側)
の間で行われました。

滝川雄利は滝川一益の養子、もしくは、娘婿だといわれています。

近い間柄で行われた話し合いはトントン拍子で進みます。

和睦はあっという間に成立。
織田信雄は徳川家康に相談する機会がありませんでした。

また、織田信雄とは対照的に、徳川家康は勝利を重ねていました。
「徳川家康に相談したら反対される」と思って、相談できなかったのかもしれません。

まとめ:織田信雄は家臣に翻弄されてしまった!

小牧・長久手の戦い織田信雄徳川家康無断豊臣秀吉和睦した3つの理由を紹介しました。

織田信雄が徳川家康に無断で豊臣秀吉と和睦した理由として、
① 織田信雄の領地が奪われたから
② 織田家臣が混乱していたから
③ 徳川家康に相談する機会がなかったから
が挙げられます。

織田信雄が豊臣秀吉と和睦した時、徳川家康はどのような心境だったのでしょうか。

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