17歳で鎮守府将軍に任命された北畠顕家と14歳で奥州総大将に任命された斯波家長。
エリートと言っても過言ではない二人は、命を落とすほどの壮絶な戦いを繰り広げました。
北畠顕家と斯波家長の間で行われた、
① 片瀬川の戦い
② 杉本城の戦い
と杉本城の戦いにおける二人の勝因と敗因を紹介します。
片瀬川の戦い
豊島河原合戦で足利尊氏に勝利した北畠顕家と新田義貞。
足利尊氏が九州に敗走したため、後醍醐天皇は京に戻りました。
・足利尊氏が九州に敗走した
・後醍醐天皇が京に戻った
といっても、足利尊氏を慕う武士は日本各地に存在します。
建武3年(1336年)3月、北畠顕家は奥州で抵抗し続ける足利勢を掃討すべく、奥州軍と共に京を出発しました。
北畠顕家が奥州に帰るというニュースは全国に広がります。
足利勢は北畠顕家から国を守ったり、奥州帰還の邪魔をしたりしなければいけません。
北畠顕家をまず迎え討ったのは、鎌倉に留まる
① 足利尊氏の三男・足利義詮
② 後見人の斯波家長
でした。
北畠顕家を中心とする陸奥将軍府に対抗するべく、指揮を取っていました。
その4ヶ月後の12月、斯波家長は京に向かう奥州軍を鎌倉まで追撃。
そのまま鎌倉に留まって、足利尊氏の三男・義詮の補佐役(関東執事)を兼任していました。
鎌倉で北畠顕家を迎え討つと、敗北したら鎌倉を奪われてしまう。
そう考えた斯波家長は片瀬川(神奈川県藤沢市)に陣を敷いて、鎌倉を守ることにします。
建武3年(1336年)4月16日、奥州軍と足利軍が片瀬川で対峙。
戦に勝利した北畠顕家は鎌倉に攻め入り、敗北した斯波家長は足利義詮を連れて、三浦半島に落ち延びました。
北畠顕家が鎌倉を出発し奥州に向かった後、斯波家長は鎌倉に戻ります。
そして、北畠顕家との来たるべき決戦に備えました。
杉本城の戦い
北畠顕家が奥州に戻って10ヶ月後、足利尊氏は北朝の光厳天皇から院宣を受けて上洛します。
多賀国府が北朝勢に包囲されたため、建武4年/延元2年(1337年)1月、霊山城に国府を移しました。
奥州の情勢が不安定であるにも関わらず、後醍醐天皇は北畠顕家に京都奪還の綸旨を出します。
8月11日、北畠顕家は義良親王を奉じて、霊山城を出発。
まず、小山城を3ヶ月かけて陥落させます。
続いて、12月13日には、利根川で斯波家長率いる足利軍を破りました。
鎌倉を守るべく、斯波家長は急いで鎌倉に戻ります。
北畠顕家率いる奥州軍は、武蔵国府・府中に布陣しました。
この時、
① 伊豆国から北条時行
② 上野国から新田義貞の次男・徳寿丸(後の足利義興)
が合流します。
北条時行は建武2年(1335年)に勃発した中先代の乱のリーダー。
足利尊氏の弟・直義の守る鎌倉を攻め、
① 後醍醐天皇の第3皇子・護良親王が殺される
② 足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻す
きっかけを作った人物です。
反乱後は行方をくらましていましたが、後醍醐天皇に降伏し、南朝勢として戦うことになりました。
また、徳寿丸は北陸で足止めされている新田義貞が自分の代わりに送り込んだ6歳の子供。
北畠顕家に相談することなく、鎌倉付近の入間川に布陣していました。
北陸にいながら鎌倉攻めで手柄をあげようとする新田義貞のやり方に納得できません。
でも、今の北畠顕家には南朝勢が一丸となって足利軍を破るしかありませんでした。
南朝勢は鎌倉を三方向から攻撃し、足利軍は次々と敗北。
斯波家長は杉本城(神奈川県鎌倉市)で戦いましたが、討死します。
上杉憲顕に連れられて、足利義詮は三浦半島に再び落ち延びました。
北畠顕家の勝因、斯波家長の敗因は?
杉本城の戦いにおける二人の勝因と敗因は何だったのでしょうか。
北畠顕家の勝因は?
紹介したように、北畠顕家率いる奥州軍に、
① 北条時行軍
② 徳寿丸軍
が合流し、南朝勢は大軍となりました。
奥州軍だけでは鎌倉を三方向から攻撃することはできなかったかもしれません。
三方向から攻撃できても、大打撃を与えることはできなかったかもしれません。
北畠顕家は複雑な気持ちを抱きながらも、北条時行・徳寿丸軍に助けられたのではないでしょうか。
斯波家長の敗因は?
北畠顕家率いる奥州軍に、北条時行・徳寿丸軍が合流したと知った斯波家長は房総に退却することを進言。
戦闘態勢を整えて戦うべきだと言いましたが、足利義詮は決戦を主張しました。
斯波家長は足利義詮に逆らうことはできず、南朝勢と戦うしかありませんでした。
合戦当時の足利義詮は戦のいろはを知らない7歳。
斯波家長はもちろん、上杉憲顕も足利義詮に強く進言すれば、戦況は変わったかもしれません。
まとめ:若き武将の戦は大軍を率いた北畠顕家の勝利!
北畠顕家と斯波家長の間で行われた、
① 片瀬川の戦い
② 杉本城の戦い
と杉本城の戦いにおける二人の勝因と敗因を紹介しました。
後醍醐天皇から第8皇子・義良親王を預かり、奥州を守らなければいけなかった北畠顕家。
後見人として、奥州総大将として、足利義詮と鎌倉を守らなければいけなかった斯波家長。
二人には主君から子供を預けられるほどの厚い信頼を寄せられたという共通点がありましたが、圧倒的な兵力差を前に、斯波家長は討死しました。
鎌倉を攻略した北畠顕家は複雑な気持ちを抱えながら、京に向かって東海道を進軍しました。
この後、北畠顕家・北条時行率いる南朝勢と土岐頼遠率いる北朝勢の間で、青野原の戦いが勃発します。
北畠顕家は大河ドラマ「太平記」に登場しています。
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