北畠顕家が戦死した石津の戦いの経過と場所をわかりやすく

わずか16歳で陸奥守に任命された花将軍・北畠顕家。

① 後醍醐天皇の第7皇子・義良親王を支える
② 敵対する足利勢を抑圧する
などしながら、北畠顕家は奥州を治めてきました。

ところが、北畠顕家が最期を迎えたのは、陸奥国から遠く離れた和泉国の地でした。

北畠顕家戦死した石津の戦い経過場所わかりやすく紹介します。

スポンサーリンク

石津の戦いとは?

石津の戦いとは、延元3年/暦応元年(1338年)6月10日に、
① 北畠顕家率いる奥州軍(南朝勢)
② 高師直・師泰兄弟(足利勢・北朝勢)
の間で勃発した戦いを指します。

和泉国坂浦・石津(大阪府堺市)で行われたため、石津の戦いと呼ばれています。

堺浦合戦や堺浜合戦とも呼ばれています。

石津の戦いの経過

般若坂の戦いで初めて敗北した北畠顕家。

北畠顕家は義良親王を吉野に送った後、楠木正成の長男・正行のいる河内国に転戦。
楠木正行の協力を得ながら、河内国や和泉国で戦闘態勢を整えようと試みます。

ところが、劣勢になった南朝勢に味方する者は少なく、奥州軍の兵力も減る一方でした。

北畠顕家が観音寺城に拠点を置く

北畠顕家
北畠顕家

まずは味方を集めなければいけない。

そう考えた北畠顕家は瀬戸内海の制圧に乗り出します。

豊島河原合戦で敗れた足利尊氏は、水軍の助けを得て、瀬戸内海を通って九州に落ち延びました。

また、湊川の戦いで勝利した足利尊氏は、水軍を活用して、楠木正成と新田義貞を破りました。

北畠顕家
北畠顕家

瀬戸内海の制海権を得れば、南朝勢の勢力を盛り返すことができると考えたんです。

北畠顕家は和泉国の観音寺城に拠点を置きました。

高師直が和泉国に進軍する

北畠顕家と同じく、制海権を重要視していた足利尊氏は北畠の動きに焦ります。
一刻も早く北畠顕家を討たなければいけないと考えた足利尊氏は、側近・高師直を送りました。

この時、高師直は北畠顕家の弟・顕信と男山で対峙していました。

足利尊氏
足利尊氏

北畠顕家に負けず、北畠顕信も足利勢・北朝勢を悩ます武将だったんですね。

足利尊氏の命を受けた高師直は兵を分けて、自ら北畠顕家の討伐に向かいました。

北畠顕家が石津で戦死する

① 石津川の北に高師直・師泰兄弟率いる足利勢・北朝勢
② 石津川の南に堺浦で北畠顕家率いる奥州軍
が陣を構えます。

そして、6月10日、両軍は衝突しました。

① 足利勢・北朝勢に比べて、兵力が圧倒的に少ないこと
② 短期間で奥州から上洛し、疲労がたまったこと
③ 瀬戸内海水軍による攻撃を受けたこと
から、奥州軍は窮地に立たされます。

北畠顕家はわずか200人の兵と共に石津で包囲されました。
足利勢・北朝勢をなんとか追い払い、吉野に向かおうとしますが、北畠顕家は途中で落馬してしまいます。

わずか20歳の北畠顕家をはじめ、
① 名和長年の長男・名和義高
② 奥州から従った南部師行
らが討死しました。

石津の戦いの場所

大阪府堺市には、
① 石津川と呼ばれる二級河川
② 南海本線「石津川駅」
③ 阪堺電気軌道「石津駅」
などがあります。

地図を見るとわかるように、石津川のほとりに北畠顕家戦死の地があります。

敷地内には、
① 供養塔
② 「此附近北畠顕家奮戦地」と書かれた石碑
③ 慰霊碑
などがあり、北畠顕家が石津で最期を迎えたことがわかります。

石津の戦いが行われた場所は、石津駅から南西に200メートル歩いた地。
アクセスも悪くないので、堺市に足を運ぶことがあれば、立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

まとめ:北畠顕家は最後まで諦めていなかった!

北畠顕家戦死した石津の戦い経過場所わかりやすく紹介しました。

北畠顕家は瀬戸内海の制海権を得て勢力を盛り返そうとしましたが、足利尊氏の送った高師直に敗れて20歳の若さでこの世を去りました。

北畠顕家をはじめとした有力武将の討死により、南朝勢の主力は壊滅。
北畠顕家が統治していた奥州では、足利勢・北朝勢が勢力を拡大しました。

北畠顕家は大河ドラマ「太平記」に登場しています。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

タイトルとURLをコピーしました