楠木正成に呼応して備後国で挙兵した桜山四郎入道の出自と自害した理由

元徳3年(1331年)に勃発した元弘の乱。
元弘の乱の主な舞台は近畿ですが、備後国で挙兵した桜山四郎入道という武将がいました。

楠木正成に呼応して備後国で挙兵した桜山四郎入道出自自害した理由を紹介します。

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桜山四郎入道の出自

桜山四郎入道は亀寿山城を居城とする備後の豪族・宮氏の出身。

応長元年(1311年)に亀寿山城の北東に櫻山城を築城し、亀山寿城を櫻山城の支城としました。
倒幕活動を行うにあたって、本城である櫻山城にちなんで「桜山」と名乗るようになったと考えられています。

「金勝院本」では、桜山四郎入道は「桜山茲俊(これとし・じしゅん)」と記載されています。
太平記では「桜山四郎入道」の名前で登場するため、こちらでは、桜山四郎入道と記載します。

楠木正成に呼応して備後国で挙兵した桜山四郎入道が自害した理由

元徳3年(1331年)4月、側後醍醐天皇の倒幕計画が幕府に漏れ、後醍醐天皇は笠置山に逃亡します。

追われてもなお、倒幕を諦めきれない後醍醐天皇は笠置山で兵を募りました。
桜山四郎入道は後醍醐天皇勢・楠木正成に呼応して、桜山氏一族と共に備後国で挙兵しました。

幕府は後醍醐天皇、楠木正成や護良親王が倒幕活動を行う近畿に兵を割いていました。

武士
桜山四郎入道

遠く離れた地方の備後国で挙兵する者が現れるとは思ってもいなかったからです。

備後国における桜山四郎入道の挙兵は幕府の隙をつき、本城・桜山城、支城・亀寿山城を中心に、短期間で備後国の半分を制圧することに成功しました。

短期間で備後国の半分を制圧した桜山四郎入道。
桜山四郎入道は勢いに乗って、続いて備中国や安芸国を制圧しようと考えていました。

ところが、桜山四郎入道の耳に、
① 9月27日に、後醍醐天皇の拠点・笠置城が陥落した
② 10月21日に、赤坂城の戦いで敗北した楠木正成が自害した
という衝撃的なニュースが飛び込んできました。

幕府勢が優勢だと判断した軍勢は桜山四郎入道から離反。
桜山四郎入道に従う者は、桜山氏一族と長年にわたって仕える家来20人程度となりました。

突然劣勢に立たされた桜山四郎入道。

武士
桜山四郎入道

信頼できる者を頼って生き延びようと考えましたが、
① 幕府によって、全国の土地が管理され、逃亡先がなかったこと
② 幕府が一度刃向かった者を見逃すとは思えなかったこと
から、逃亡を諦めます。

そして、桜山四郎入道は備後国一ノ宮(吉備津神社)に参拝し、自害を決意しました。

27歳の妻、8歳の子どもを殺した後、社殿に火を点け切腹。
元弘2年(1332年)1月21日、桜山四郎入道は家族と家来23人と共にこの世を去りました。

桜山四郎入道は櫻山城で挙兵しましたが、
① 櫻山城の支城・亀寿山城
② 櫻山城の北西に位置する鳶尾山城
など、櫻山城の周辺の城と連携を取って、倒幕活動を行いました。

① 櫻山城
② 鳶尾山城
③ 吉備津神社
は桜山四郎入道挙兵伝説地として、国の史跡に指定されています。

地図に記載しているように、各城、神社との距離は遠くありません。

また、吉備津神社の境内には、桜山四郎入道を祭神とする櫻山神社があります。

吉備津神社の最寄り駅はJR福塩線「新市駅」で、駅から徒歩25分程度。
福山市を訪れた際に、足を運んでみてはいかがでしょうか。

まとめ:楠木正成自害の誤報によって、桜山四郎入道は自害した!

楠木正成に呼応して備後国で挙兵した桜山四郎入道出自自害した理由を紹介しました。

畿内の混乱に乗じて備後国で挙兵した桜山四郎入道は、備後国の半分をあっという間に制圧しました。

ところが、
① 後醍醐天皇の拠点・笠置城が陥落した
② 楠木正成が自害した
ため、桜山四郎入道は突然劣勢に立たされ、家族や家来と共に自害しました。

赤坂城における楠木正成の自害は誤報。

楠木正成が生きていると知っていたら、桜山四郎入道の人生も変わったかもしれませんね。

桜山四郎入道は大河ドラマ「太平記」に登場しています。

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