
戦では負け知らずといわれる豊臣秀長。
豊臣秀長が負けた相手は小さな淡河城の城主・淡河定範でした。
淡河城の戦いが起きた理由、淡河定範の奇策とその後を紹介します。
豊臣秀長が負けた!淡河城の戦いが起きた理由
天正6年(1578年)3月、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と別所長治の間で、三木城の戦いが勃発。
別所長治率いる7500人が三木城に籠城しました。
豊臣秀吉は「三木城の食料が枯渇すれば、簡単に落とせる」と思っていました。
ところが、三木城の食料はなかなか枯渇しません。
② 同じく離反した荒木村重による摂津から丹生山を介した陸上ルート
の2つのルートを使って、食料の補給が行われていたからです。
そこで、豊臣秀長(当時は羽柴秀長)は支城のある丹生山を襲撃し、淡河城を攻めることにしました。
淡河定範の奇策とその後
豊臣秀吉によって三木城の支城が次々と落ちる中、三木城を最後まで支援したのが淡河城。
淡河城主・淡河定範は別所長治の伯父。
別所長治が織田信長から離反すると、淡河定範も離反しました。
淡河定範の奇策
三木城の食料補給基地である丹生山、淡河城を襲撃するだろう。
そう予想した淡河定範は、
・馬防柵:馬の移動や突撃を防ぐ柵
・車菱:道にばらまく棘
・落とし穴
・逆茂木:先端のとがった木の枝を並べたもの
を準備しました。
更に、牝馬50頭を淡河城内に集めます。
そして、「淡河城の兵は城を工事している」という嘘の情報を流し、戦闘態勢ではないと思わせました。

天正7年(1579年)6月27日、淡河定範が予想したとおり、豊臣秀長は丹生山を襲撃。
そして、勢いに乗った豊臣秀長は淡河城に攻め入りました。
淡河定範は城内に逃げ込み、豊臣秀長軍を淡河城におびき寄せます。

途中、豊臣秀長軍は車菱や落とし穴、逆茂木で隊列を乱しました。
そこに、淡河城から牝馬50頭を放ちます。
兵を乗せていた牡馬は興奮し、豊臣秀長軍は次々と落馬。
牡馬と牝馬に踏みつけられ、豊臣秀長軍は撤退しました。
淡河定範のその後
撤退した豊臣秀長は態勢を立て直し、再び淡河城に攻め入りました。

次に豊臣秀長が攻めてきた時には敗北するだろう。
そう思っていた淡河定範は城を焼き払い、300人を率いて三木城に向かいました。
食料の補給ルートを断たれた三木城は飢えに苦しんでいました。
そこで、別所長治は毛利氏と共に賭けに出ます。
陸上の食料補給ルートにある敵軍の平田山砦を攻撃し、食料を調達しようと考えたんです。
9月9日午前2時ころ、毛利氏の武将・生石治家が上陸。
三木城の城兵の案内を受けて、平田山砦を守る豊臣秀吉の与力・谷衛好を討ち取りました。

この戦いの最中に、三木城の城兵が食料を運び込もうとします。
すると、豊臣秀吉は搬入を阻止しようと出陣。
淡河定範は別所長治の叔父・別所吉親と共に豊臣秀吉軍と戦いました。
淡河定範は手傷を負い、5人の家来と逃げ延びようとしましたが、追いつかれてしまいます。
豊臣秀長軍を一人でも多く討とうと、死んだふりをして油断させ戦いましたが、最後は自害しました。

淡河城落城後、有馬則頼が城主になりました。
慶長6年(1601年)、有馬則頼が三田城に移ると、元和元年(1615年)に淡河城は廃城。
淡河定範は亡くなりましたが、
☑ 淡河定範の弟は有馬則頼に仕える
☑ 淡河定範の兄は黒田官兵衛に仕える
☑ 淡河定範の娘は道場城主・松原貞利に嫁ぐ
☑ 淡河定範の次男・次郎丸は三木城陥落後、四国の坂出に落ち延びる
など、兄弟、子どもは新たなステージで生き続けました。
(※淡河定範の長男・若竹丸は早逝。)
城の遺構は本丸と天守台、堀だけ。
本丸の南東には菩提寺・竹慶寺跡があり、境内には淡河氏代々の墓碑があります。
まとめ:豊臣秀長は淡河定範の奇策にハマった!
淡河城の戦いが起きた理由、淡河定範の奇策とその後を紹介しました。
別所長治に忠義を尽くし、平田山砦で自害した淡河定範。
三木城の戦いに付随する戦はたくさんありますが、淡河城の戦いは別所方の唯一の戦勝でした。
豊臣秀吉が心から信頼できる弟・豊臣秀長。
豊臣秀長の大ピンチに豊臣秀吉もハラハラしたのではないでしょうか。
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