天正10年(1582年)6月2日に起きた本能寺の変。
織田信長を討ったのは、確かに明智光秀です。
ただ、その裏には、豊臣秀吉、朝廷、徳川家康の陰謀が潜んでいたともいわれています。
① 本能寺の変の犯人が明智光秀である理由
② 本能寺の変の黒幕が豊臣秀吉、朝廷、徳川家康といわれる理由
を紹介します。
本能寺の変の犯人は明智光秀?
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀は織田信長を本能寺で討ちました。
明智光秀には織田信長を討ちたい理由がありました。
「明智光秀が織田信長を本能寺の変で討った理由と進軍ルート」でも触れていますが、こちらでも簡単に取り上げておきたいと思います。
排除を恐れたから
① 比叡山延暦寺や恵林寺の焼き討ちに反対する
② 娘の義父・荒木村重が謀反を起こす
など、明智光秀は織田信長の怒りを度々買っていました。
天正8年(1580年)8月には、織田筆頭家老・佐久間信盛が追放されていました。
佐久間信盛に同じく、明智光秀はいつ排除されてもおかしくない状況に置かれていました。
丹波国を没収されたから
石山本願寺との和睦を成立させた天正8年(1580年)。
明智光秀は功績を称えられ、織田信長から丹波国を与えられました。
ところが、そのわずか2年後の天正10年(1582年)5月15日。
織田信長は、
中国を治める毛利氏を征伐し、出雲国、石見国を奪って自領とするように。
と命じ、明智光秀から丹波国を没収しました。
面子を潰されたから
徳川家康が織田信長の居城・安土城を訪れた際、明智光秀は接待役を務めました。
ところが、用意した食事に不手際があり、織田信長は明智光秀を皆の前で罵倒。
明智光秀は面子を潰されてしまいました。
以上から、明智光秀が織田信長を恐れていた、恨んでいたことは間違いありません。
☑ 太田牛一の「信長公記」
☑ 明智光秀に従って本能寺に出向いた武士・本城惣右衛門の「本城惣右衛門覚書」
から、明智光秀が織田信長を討った犯人であることに間違いはありません。
本能寺の変の黒幕が豊臣秀吉、朝廷、徳川家康といわれる理由
紹介したように、織田信長を討った犯人は明智光秀で間違いありません。
でも、本能寺の変には、
① イエズス会の息のかかった豊臣秀吉
② 朝廷
③ 徳川家康
の黒幕がいたともいわれています。
永禄12年(1569年)、織田信長はポルトガル人宣教師であるルイス・フロイスと面会。
堺を拠点に、ポルトガルとの交易を開始し、イエズス会と緊密な関係を築きました。
ところが、それから10年が経った頃、ポルトガルはスペインに併合されてしまいます。
ポルトガルの支援を受けていたイエズス会は存続の危機に立たされました。
そこで、イエズス会はスペインとの関係を深め、存続を図ろうとします。
天正7年(1579年)7月25日、イエズス会宣教師であるアレッサンドロ・ヴァリニャーニョは口之津港(長崎県南島原市)に到着しました。
アレッサンドロ・ヴァリニャーニョの来日目的は、スペインの明征服に対する援軍要請です。
当時、スペインは東アジアに進出しようとしていました。
① インド西海岸のゴア
② マレー半島南西岸のマラッカ
③ マカオ
など、ポルトガル領を手に入れていたからです。
スペインが注目したのは日本の西にある明。
スペインには「無敵艦隊」があるため、明の港を制圧するのは簡単です。
でも、明の面積はヨーロッパの面積とほぼ同じ。
国土の広い明を征服するためには、上陸して大陸内部に進軍しなければいけません。
そこで、アレッサンドロ・ヴァリニャーニョは織田信長に面会。
・日本から10万人の兵を出して、明を一緒に征服してほしい。
・征服した暁には、黄河より北を日本に与える。
と申し出ました。
当時の日本の人口は800万人から1000万人程度で、明の人口は約6070万人。
スペインと一緒に明を征服し、明の半分を日本の領地としても、明を統治できない。
織田信長はそう判断し、アレッサンドロ・ヴァリニャーニョの援軍要請を断りました。
そして、イエズス会やスペインとの関係を断つことにしました。
織田信長に拒まれたイエズス会が次に注目したのは、キリシタン大名や信者と仲のいい豊臣秀吉。
キリシタン大名の中でもいち早く洗礼を受けた高山右近は織田信長に仕えていました。
① 織田家臣・黒田官兵衛
② 織田家臣・蒲生氏郷
は、後に洗礼を受けてキリシタンとなります。また、洗礼は受けないものの、細川忠興や前田利家はキリシタンに対して好意的でした。
キリシタンは宣教師の命令に絶対に従わなければいけません。
イエズス会は豊臣秀吉を通じて、
① キリシタン大名
② 信者
③ キリシタンに対して好意的な者
を取り込み、織田信長をトップから引きずり下ろそうとしました。
イエズス会や戦国大名のこのような動きは朝廷に筒抜け。
以前より交流のあった明智光秀を味方に引き込み焚きつけて、織田信長を討たせました。
情報通な豊臣秀吉が朝廷やキリシタン、戦国大名の動きを知らないはずがありません。
また、本能寺の変の直後、黒田官兵衛は、
殿、ご運が開けましたな。
と豊臣秀吉に言います。
黒田官兵衛の当時の主君は織田信長。
主君を失った直後にも関わらず、状況を冷静に分析し、豊臣秀吉に「殿」と声をかける。
① 戦国大名がイエズス会と通じていた
② 本能寺の変を事前に把握していた
ことを表しているのではないでしょうか。
また、織田信長と清洲同盟を結んでいた徳川家康。
織田信長が勢力を拡大するにつれて、二人の関係は対等ではなく主従に変化していきました。
織田信長の長女・徳姫の告げ口により、徳川家康は正室・築山殿、長男・信康を失っています。
徳川家康が織田信長を恨んでいた可能性は十分あり、その周囲の動向に目を光らせていました。
徳川家康もまた、本能寺の変を事前に把握していたのではないでしょうか。
まとめ:本能寺の変にはイエズス会が関わっていた?
① 本能寺の変の犯人が明智光秀である理由
② 本能寺の変の黒幕が豊臣秀吉、朝廷、徳川家康といわれる理由
を紹介しました。
織田信長は小姓・森蘭丸に「是は謀叛か、如何なるものの企てぞ」と尋ねました。
森蘭丸は「明智が者と見え申し候」と答えました。
すると、織田信長は「是非に及ばず」とだけ言って、武器を手にしました。
謀反を起こしたのが明智光秀だと知った時、織田信長は何をどこまで悟ったのでしょうか。
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