本多忠勝が殿を務めた一言坂の戦いの経過と勝敗、場所、徳川家康の脱糞説

徳川家康の負け戦として知られる三方ヶ原の戦い。

・三方ヶ原の戦いには、前哨戦となる二俣城の戦い
・二俣城の戦いには、前哨戦となる一言坂の戦い
がありました。

本多忠勝が殿を務めた一言坂の戦いの経過と勝敗場所徳川家康脱糞説を紹介します。

スポンサーリンク

一言坂の戦いとは?

一言坂の戦いとは、元亀3年(1572年)10月13日に、徳川家康・武田信玄間で行われた戦いを指します。
この3日後に行われる二俣城の戦い、そして、3ヶ月後に行われる三方ヶ原の戦いの前哨戦といわれています。

一言坂の戦いの経過と勝敗

元亀元年(1570年)4月、織田信長は越前の朝倉義景を攻めます。
この時、織田信長の義弟にあたる北近江の浅井長政は朝倉義景に加担しました。

浅井長政が織田信長を裏切ったことをきっかけに、織田信長と敵対していた
・南近江の六角義賢
・比叡山延暦寺
・石山本願寺
などが協力し、織田信長をけん制する信長包囲網を形成しました。

織田信長が四面楚歌のピンチに陥っていると知った甲斐の武田信玄。
今こそ領地を拡げる時だと考え、徳川家康の支配する三河を攻めることにしました。

武田信玄の三河侵攻を「西上作戦」といいます。

1572年10月、武田信玄は甲府を出発。

高遠城を起点に、
・山県昌景を三河
・秋山虎繁(信友)を美濃
に向かわせました。

武田信玄自身は3万の兵を率いて、遠江に向かいました。

武田信玄が犬居城に到着すると、城主・天野景貫はすぐに降伏して開城。
以降、天野景貫は案内役として武田信玄に仕えることになりました。

犬居城を攻略した武田信玄は、馬場信春に5000人の兵を与えて、光明城、只来城を陥落させました。
また、武田信玄自身は天方城、飯田城、各和城を落としました。

武田信玄は山県昌景や馬場信春と合流するべく、二俣城へ向かいました。

二俣城は徳川家康の支配する遠江の要所。
武田信玄が西上作戦を成功させるにあたって攻略しておきたい城でした。

武田信玄が二俣城に進軍していると知った徳川家康は、本多忠勝、内藤信成に一軍を預けて、偵察に向かわせました。

そして、徳川家康自身は3000人の兵を率いて、後を追いました。

おゆう
おゆう

ところが、武田軍の進むスピードは速く、2人は三箇野川で武田軍と遭遇してしまいます。

戦うことを想定していなかった本多忠勝と内藤正成はすぐに逃げました。
でも、三方ヶ原台地の西にある一言坂で追いつかれてしまい、武田軍と戦うことになりました。

武田軍との戦いが長引いたら、徳川家康の率いる軍が到着して、戦いに巻き込まれてしまうかもしれません。

そこで、
・徳川家康を戦いに巻き込まないため
・内藤信成を逃がすため
に、本多忠勝と大久保忠佐は殿(しんがり)を買って出ました。

殿とは、軍の最後尾に立って、敵の追撃を防ぐ役割です。

前方から馬場信春が、後方から小杉左近が攻撃し、2人は挟み撃ちに遭いました。

坊っちゃん
坊っちゃん

本多忠勝は敵中突破するしかないと判断し、大滝流れの陣をとって、小杉軍に突撃。

本多忠勝の男気に驚いた小杉左近は道を空けるように指示し、本多忠勝を逃がしました。

本多忠勝は小杉左近の前で立ち止まり、名前を聞いて、感謝の言葉を述べました。
本多忠勝も大久保忠佐も、無傷で退却することに成功し、徳川軍は浜松城に無事帰還しました。

一言坂の戦いが終わった後、
「家康に過ぎたる(勿体ない)ものが二つあり。唐の頭に本多平八
という短歌が登場しました。
家康に過ぎたるものとは、
・唐の頭(ヤクという牛の毛で作られた兜。中国の四川省やチベットで作られ、当時日本では珍しいもの)
・本多平八(忠勝)
の2つ。
本多忠勝がいかに高い評価を受けていたかが分かりますね。

一言坂の戦いの場所

紹介したように、一言坂の戦いの舞台は三方ヶ原台地の西です。

① カーナビに「静岡県磐田市一言」と入れる
② 県道413号線/岩田袋井線を走る
と、道路沿いに一言坂の古戦場碑があり、その奥に一言坂があります。

ただ、駐車場がないうえに、車通りが多く、路上駐車はできません。
おゆう
おゆう

私は一言坂で車を降り、私が散策している間、夫・すけさんにはドライブを楽しんでもらいました。

一言坂に足を運ぶ際には、車を預かってくれる運転手さんを連れて行きましょう。

徳川家康の脱糞説

「三河後風土記」に、
「一言坂の戦いにおいて、武田軍に恐怖に駆られた徳川家康が馬の上で脱糞した」
という記録が残っています。

そして、馬を降りる時に、徳川家康は「これは味噌だ!」と言ってごまかしたのだとか。

坊っちゃん
坊っちゃん

あの武田信玄と戦ったんだから、脱糞しても仕方がないです。

いや、武田軍と戦ったのは、
・徳川家康が偵察に向かわせた本多忠勝と内藤信成
・殿を務めた大久保忠世
で、徳川家康自身は浜松城に引き返しただけで、武田軍と戦っていません。

残念ながら、徳川家康が脱糞したかどうか、真実は分かりません。
もし、徳川家康が脱糞していたとしたら、武田信玄と戦うことを想像して恐怖に駆られたのかもしれませんね。

まとめ:一言坂の戦いは徳川家康と武田信玄の戦いの幕開け!

本多忠勝が殿を務めた一言坂の戦いの経過と勝敗場所徳川家康脱糞説を紹介しました。

ピンチに陥った織田信長が徳川家康に援軍を送ることはないと考えて、武田信玄は領地を拡げるべく三河を侵攻しました。
そして、徳川家康の偵察隊として派遣した本多忠勝、内藤信成が武田軍と遭遇し、一言坂の戦いが勃発。
戦う準備の整っていなかった徳川軍は敗北を喫しました。

もし、本多忠勝、内藤信成が武田軍と遭遇していなかったら、一言坂の戦いの結果は違ったものになっていたのでしょうか。

大河ドラマ「どうする家康」をもっと楽しむなら、こちらのガイドブックがオススメです。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

タイトルとURLをコピーしました