
わずか9歳で織田信長の人質となり、間もなく処刑されそうになった黒田長政。
黒田長政は何故人質になり、どのように救われたのでしょうか。
黒田長政が人質になった理由と竹中半兵衛が黒田長政を救ったエピソードを紹介します。
黒田長政が人質になった理由は小寺政職のせい?
黒田長政が人質になった理由を知る前に、誰がどんな理由で人質を集めたのかを知っておきましょう。
天正3年(1575年)5月、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍の間で長篠の戦いが勃発。
長篠の戦いで武田勝頼を破った織田信長は、中国攻略(毛利攻め)に乗り出します。
畿内と中国を結ぶ丹波・丹後・播磨に進出し、味方を集めていました。
一方、京を追われた足利義昭は鞆で幕府再興を目指していました。
足利義昭は織田信長討伐の文書を各地の大名に送ります。
☑ 石山本願寺
☑ 紀伊国の雑賀衆
☑ 備前国の宇喜多直家
☑ 越後国の上杉謙信
などが反織田連合(信長包囲網)を再構築していました。
当初は勢いのある織田信長に味方する者が多くいましたが、毛利氏が播磨国の豪族を中心に調略します。
焦った織田信長は豪族から人質を集めることにしました。

長篠の戦いの直後から織田信長と親交のあった黒田官兵衛もその一人です。
何故、黒田官兵衛は長男・長政を人質として差し出すことになったのでしょうか。
理由は2つあります。
主君・小寺政職が子どもを差し出さなかったから
豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の参謀として有名な黒田官兵衛。
黒田官兵衛は豊臣秀吉に仕える前、御着城主・小寺政職に仕えていました。
後に小寺政職の姪・てると結婚。
黒田官兵衛にとって、小寺政職は主君であり、親戚でもありました。
天正5年(1577年)10月、小寺政職は織田信長から人質を送るように求められます。
ところが、小寺政職はこれを拒否。
① 長男・氏職が病弱だった
② 気の回らない氏職が織田信長の怒りを買うのではないかと心配した
からだといわれています。
そこで、黒田官兵衛は長男・長政を代わりに差し出すことを申し出ました。
黒田官兵衛が豊臣秀吉の軍師として活躍するようになったから
豊臣秀吉が中国攻略を成功させるには、黒田官兵衛の策が必要でした。
黒田官兵衛が豊臣秀吉を裏切れば、中国攻略が失敗に終わるどころか、豊臣秀吉も命を落としかねません。
豊臣秀吉への忠誠心を示すために、黒田官兵衛は大事な息子を人質として差し出しました。
黒田長政を救ったのは竹中半兵衛
人質として差し出された黒田長政は、(織田信長ではなく)豊臣秀吉に預けられます。

永禄11年(1568年)生まれの黒田長政は長浜城で少年時代を送りました。
当時、豊臣秀吉と正室・ねね(北政所)の間に子どもはおらず、黒田長政は二人から可愛がられました。
ところが、天正6年(1578年)10月、黒田長政の身に危険が及びます。
有岡城主・荒木村重が織田信長を裏切って籠城しました。
荒木村重と黒田官兵衛は同じキリシタン。
「話し合えばわかるはず」と言って、黒田官兵衛は有岡城に説得に向かいました。
ところが、荒木村重は黒田官兵衛に会おうともせず、有岡城の地下に幽閉してしまいます。
黒田官兵衛が戻ってこないことから、織田信長は「黒田官兵衛が裏切った」と思い込みます。
そして、人質である黒田長政を処刑するよう命じました。

黒田官兵衛が裏切るとは思えない。
可愛がってきた黒田長政を処刑することはできない。
でも、主君の命令に逆らうわけにもいかない。
豊臣秀吉は処刑を踏み切れず、悩んでいました。
そこで、竹中半兵衛は自ら黒田長政の処刑役を買って出ます。
黒田官兵衛と竹中半兵衛は共に豊臣秀吉の軍師で、いわば同僚のようなもの。
豊臣秀吉は「せめて、(黒田官兵衛の)友人の手で葬ってあげよう」と思い、黒田長政を預けました。

竹中半兵衛は黒田官兵衛が裏切るとはとても思えませんでした。
そこで、自身の領地にある菩提山城に黒田長政を匿います。
そして、亡くなったばかりの別の子どもの首を差し出し、黒田長政を処刑したように見せました。
豊臣秀吉は竹中半兵衛が別の首を用意して差し出したことを知っていてもおかしくありません。
ただ、中国攻略にあたって、黒田家を敵に回すわけにはいきませんでした。
黒田長政を処刑すれば、中国攻略に失敗するかもしれない。
そう考えた、豊臣秀吉は竹中半兵衛の嘘を見過ごした可能性があります。
一年後、有岡城の戦いが終わり、幽閉されていた黒田官兵衛が救出されます。

黒田官兵衛は裏切らず、ボロボロの身体で助けを待っていた。
そう知った織田信長は、黒田長政の処刑を命じたことを後悔しました。
黒田官兵衛が救出された後、菩提山城で匿われていた黒田長政は姫路へ戻ります。
黒田長政が姫路城に戻るその半年前。
竹中半兵衛は三木城の戦いの本陣・平井山で36歳の若さで亡くなっていました。
まとめ:竹中半兵衛の機転で、黒田家が存続した!
黒田長政が人質になった理由と竹中半兵衛が黒田長政を救ったエピソードを紹介しました。
黒田官兵衛は子どもになかなか恵まれず、黒田長政はたった一人の大事な息子でした。
後に、次男・熊之介を授かりますが、15歳で亡くなってしまいます。
もし、竹中半兵衛が黒田長政を救っていなければ、黒田家は途絶えていたかもしれません。
黒田官兵衛は竹中半兵衛に御礼を直接伝えられなかったことを悔しがっているのではないでしょうか。
【観光スポット】竹中半兵衛ゆかりの地・菁莪記念館に行こう!
竹中半兵衛の居城・菩提山城は標高402mの菩提山の山頂に築かれました。
東西150m、南北300mの菩提山城は西美濃で最大級の山城です。
晴れた日には、頂上から金華山や名古屋駅前ビルまで見ることができます。
「菁莪記念館」では、陣屋の復元予想模型や竹中氏にまつわる史料を紹介しています。
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