甲賀忍者・伴与七郎と鵜飼孫六が徳川家康に従って鵜殿長照を討った経緯

桶狭間の戦いの後、正室・築山殿、長男・信康、長女・亀姫が今川家の人質となってしまった徳川家康。

家族を取り戻そうと奔走する徳川家康に協力したのは、甲賀忍者(甲賀衆)でした。

甲賀忍者伴与七郎鵜飼孫六徳川家康に従って鵜殿長照を討った経緯を紹介します。

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徳川家康の家族が今川家の人質になる

永禄3年(1560年)に勃発した桶狭間の戦いの後、今川家の人質だった徳川家康は混乱に乗じて独立。
今川義元の跡を継いだ今川氏真の許可を得ることなく、生まれ育った岡崎城に帰りました。

この時、徳川家康は、
① 正室・築山殿
② 長男・信康
③ 生まれたばかりの長女・亀姫
の3人を今川家に置き去りにしてしまいました。

築山殿は今川義元の姪で、今川氏真にとって従兄妹にあたります。
そのため、徳川家康は「今川氏真が3人を殺すことはないだろう」と思っていました。

ところが、徳川家康が裏切ったことを知った今川氏真は、今川家に残っていた徳川家臣を次々と殺します。

徳川家康は家族の身を案じ、3人を自分の手に取り戻したいと考えました。

上ノ郷城を攻撃するも失敗する

家族3人を取り戻すべく、徳川家康は、
① 今川氏真の従兄弟・鵜殿長照
② 鵜殿長照の子ども・氏長、氏次
3人を生け捕りにして、人質を交換することにしました。

永禄5年(1562年)、徳川家康は鵜殿長照が城主を務める上ノ郷城の北西にある名取山に陣を構えました。
そして、徳川家臣・松平清善に命じて攻撃を開始。

ところが、上ノ郷城の守りは堅く、思うように攻め落とすことができません。

このままでは、人質を手に入れる前に、今川氏真に家族を殺されてしまいます。

徳川家康が甲賀忍者の手を借りると決心する

悩む徳川家康に手を差し伸べたのが、仁連木(にれんぎ)城主・戸田重貞。

今川義元に仕えていた戸田重貞は、今川氏真から離れるタイミングを見計らっていました。
また、今川家で人質となっている母を救出しようと画策していました。

おゆう
おゆう

戸田重貞は徳川家康と同じ境遇で、同じ悩みを抱えていたんです。

戸田重貞は滋賀県南部に拠点を置く甲賀忍者の手を借りてはどうかと提案。

徳川家康は戸田重貞を通じて、甲賀忍者に接触しました。

伴与七郎と鵜飼孫六が鵜殿長照を討つ

甲賀忍者・伴与七郎は鵜飼孫六と共に合計280人もの忍びを率いて、徳川家康のもとに駆けつけました。

徳川家康から事情を聞いた鵜飼孫六は上ノ郷城を守る兵と同じ服装に着替え、城内に忍び込みました。

そして、城内に火を放ち、更に、「裏切り者がいる!」と叫んで混乱させました。

肝心の鵜殿長照は討死してしまいましたが、伴与七郎は混乱に乗じて、
① 鵜殿氏長
② 鵜殿氏次
を生け捕りにすることに成功。

徳川家康は鵜殿氏長、鵜殿氏次を今川氏真に差し出し、無事、家族を取り返すことができました。

その後の甲賀忍者の活躍

任務を成功させ、徳川家康から信頼を寄せられることとなった甲賀忍者。
甲賀に戻る途中、甲賀忍者は徳川家康が抱えるもう一つの問題を解決する手助けをしました。

徳川家臣まで徳川家康に剣を向けた三河一向一揆です。

三河一向一揆で徳川家康が戦ったのは一向宗の信徒だけではありません。

長年対立していた三河西条吉良氏・三河東条吉良氏の当主・吉良義昭が混乱に乗じて加勢し、徳川家康は一揆鎮圧に手こずっていました。

そこで、甲賀忍者は一向宗の信徒の集まる集落・土呂にある御堂を破壊し、一揆衆の戦意を喪失させました。

徳川家康からより厚く信頼を寄せられた甲賀忍者は、この後、徳川家康のもとで活躍し続けしました。

まとめ:伊賀忍者と甲賀忍者に注目!

甲賀忍者伴与七郎鵜飼孫六徳川家康に従って鵜殿長照を討った経緯を紹介しました。

徳川家康は甲賀忍者の力を借りなければ、家族を取り戻すことはできませんでした。
服部半蔵率いる伊賀忍者だけでなく、甲賀忍者にも注目していきたいですね。

大河ドラマ「どうする家康」をもっと楽しむなら、こちらのガイドブックがオススメです。

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