
中国史上唯一の女帝として知られる則天武后。
その圧倒的な権力を背景に、武氏一族は唐王朝の中枢を占めるまで勢力を拡大しました。
しかし、則天武后の死を境に、武氏一族の運命は大きく転換します。
かつて栄華を誇った武氏一族は権力闘争に巻き込まれ、ほとんどが粛清されました。
一方で、完全に滅びたわけではなく、後に一部は復権を果たします。
① 則天武后(武則天)の死
② 則天武后死後の武氏一族の粛清と没落
③ 武氏一族の復権とその後
をわかりやすく紹介します。
則天武后の死
天授元年(690年)、自ら皇帝として即位し、国号を周(武周)に改めた則天武后。
即位後も政務に励みましたが、この時、則天武后は既に66歳。
則天武后も年齢には勝てず、体調を崩して横になることが増えていきました。
晩年の政治状況と権力構造
体調を崩した則天武后は、朝廷に顔をあまり出さなくなりました。
朝廷を引っ張っていく実質的なトップがいなくなった。
則天武后の不在によって、実権を握ろうと企む側近が現れます。

権力を振りかざして威張っていたのが、張易之・昌宗兄弟。
張兄弟は美貌だけが取り柄の少年で、則天武后に可愛がられて高い地位に登り詰めました。

・科挙などの厳しい選抜試験を経て登用された者
・則天武后から能力を評価されて登用された者
などをはじめ、朝廷内の不満は高まっていきました。
また、則天武后は自らの武氏一族を重用し、李氏(唐の皇族)を抑え込んでいました。
朝廷には、唐の第2代皇帝・太宗や第3代皇帝・高宗に仕えてきた高官もいます。
武氏一族を重用する政治体制は、古くから仕えてきた高官の反発を招いていました。
神龍政変の発生
神龍元年(705年)、宰相・張柬之らが「神龍の政変」と呼ばれるクーデターを起こします。
神龍の政変によって張兄弟は殺害され、則天武后は退位に追い込まれました。
翌年の神龍2年(706年)、則天武后は病死。
唐の第6代皇帝として中宗(李顕)が復位し、李氏による政権が復活します。

この瞬間、武氏一族にとって厳しい時代が始まりました。
則天武后の死は単なる一個人の死ではありません。
則天武后が築き上げてきた体制そのものの崩壊をも意味していたんですね。
則天武后の死後の武氏一族の粛清と没落
則天武后の死、李氏による政権の復活によって、厳しい状況に追い込まれた武氏一族。
武氏一族に、具体的にどのような影響があったのでしょうか。
武氏一族への粛清
則天武后の死後、最大の変化は武氏一族に対する徹底的な排除でした。
長年にわたり権力を独占してきた武氏には、多くの政敵がいました。
これまで則天武后を恐れて何も言い出せなかった政敵。
もう恐れるものは何もありません。
武氏一族の中でも、
☑ 則天武后の甥・武三思
☑ 武三思の次男で中宗の義理の息子・武崇訓
が大きな権力を握っていました。
神龍3年(707年)、武三思に不満を抱いていた皇太子・李重俊はクーデターを起こします。
武三思・崇訓親子はこのクーデターで命を落としました。
則天武后の死の翌年の出来事でした。

武氏一族の中心人物は次々と失脚。
また、多くの一族が地方へ左遷されたり、処刑されたりして、事実上の粛清が行われました。
単なる政権交代であれば、ここまでする必要はありません。
則天武后の政治体制に対する反発が強くあらわれていたといえるのではないでしょうか。
李氏勢力による武氏一族の没落
高祖(李淵)、太宗(李世民)、高宗(李治)、中宗(李顕)、睿宗(李旦)。
唐は李氏が建国し、治めてきた国です。
則天武后の死と武氏一族の粛清によって、李氏皇族は勢力を回復します。

一方で、中宗の正室・韋皇后や娘・安楽公主などの新たな権力者も登場。
一難去ってまた一難、宮廷内の権力構造は再び複雑化しました。
このような状況下で武氏一族は政治的基盤を完全に失います。
後ろ盾を失った武氏一族は排除の対象となり、一族全体が没落の道をたどりました。
武氏一族の復権とその後
則天武后は自ら周王朝を建てました。
唐を復活させるためには、武氏の影響を徹底的に排除する必要がありました。
武氏一族の粛清は単なる報復ではありません。
唐王朝の正統性を回復するための政治的行為でもありました。
そのため、武氏一族の完全な根絶までは行われず、一部は生かされることになります。
武氏一族の復権
粛清によって、武氏一族は壊滅的な打撃を受けました。
ただ、時間の経過とともに状況は徐々に変化します。
政治の混乱が収束するにつれて、武氏一族に対する粛清を見直す動きが出てきました。

特に、唐の第9代皇帝・玄宗(李隆基)の治世になると、政治は安定。
過去の政敵に対するいき過ぎた弾圧が緩和されます。
この流れの中で、武氏の子孫の一部は官職に復帰するなど、限定的な復権を果たしました。
あくまで地方官や中級官僚としての復帰です。
武氏一族のその後
かつては中国三大悪女と呼ばれた則天武后。
ただ、則天武后に対する評価も時代によって変化しています。
女性の社会進出が進む近年では、則天武后を有能な統治者として評価する傾向があります。
また、武氏一族の興亡についても、
☑ 則天武后個人の権力に依存した体制の危うさ
☑ 政権交代時の粛清の危険性
について、大きな教訓を残しました。
則天武后同様、武氏一族は後世に気づきを与える存在として見直されつつあります。
まとめ:武氏一族の一部は官職に復権した!
神龍の政変による政権交代をきっかけに、武氏一族は急速に没落。
武三思・崇訓親子をはじめ、多くの一族が粛清されました。
則天武后の退位と死は、武氏一族にとって栄光の終焉を意味しました。
ただ、武氏一族は歴史から完全に消えたわけではなく、後に一部は復権を果たしました。
武氏一族の盛衰は、個人の権力依存した体制の危うさを象徴しています。
武氏一族の歴史をたどることで、則天武后の政治体制の問題点が浮き彫りになるのではないでしょうか。
中国時代劇を見て、則天武后に興味をもった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
則天武后について知りたい方は、氣賀澤保規著「則天武后」がおすすめ。
則天武后の心理状態が適度に描写され、小説のようにスラスラ読めます。
ぜひ一度、「則天武后」を読んでみてください。
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